島から脱走しようと命を落とした患者もいた

1988年5月に開通したとき、この橋は「人間回復の橋」と呼ばれたという。本州と陸続きになり、「島」という隔離された環境ではなくなったからだ。海峡の幅は一番狭いところで30メートルほどしかなく、泳げばすぐに渡れそうにも見えるが、潮の流れが速く、脱走を試みて命を落とした患者も1人や2人ではなかった。

橋を渡ると、すぐに国立療養所邑久光明園が見えてくる。長島愛生園同様、ハンセン病の療養所で、1938(昭和13)年4月に第3区府県立光明園として開設され、41年に国立療養所となった。患者数は最大で1100人あまりに達したが、現在の入所者数は100人にも満たず、新たに民間の特別養護老人ホームが建てられている。

長島というのは、その名の通り東西に長い島である。邑久光明園からさらに3キロほど進んで行くと、右側の視界が開けて瀬戸内海が広がった。この海を見下ろす高台の上に、長島愛生園の事務本館が建っていた。時計の針を見ると、午後2時前を指している。

夫婦単位で住める「6畳2間の住宅」は強制隔離の象徴

1931年3月に光田健輔が81人の患者とともに東村山の全生病院から長島愛生園に移ったときには、極秘に列車が運転された。患者を乗せた列車は貨物列車に増結され、東村山から西武線や中央線や東海道本線などを経由し、港に近い大阪の桜島まで走った。さらに大阪港から長島まで船が運航されたが、結局長島までは2日あまりを要している(『愛生園日記』、毎日新聞社、1958年)。

園長として赴任した光田を迎えた事務本館は、現在、歴史館として公開されており、その横に現在の事務本館がある。歴史館の見学は後回しにして、先に愛生園内を散策し、史跡を見学することにした。

まず事務本館裏手の丘を上る。芝刈りに来ている業者を除いて人の姿を見かけない。丘の斜面に10坪住宅と呼ばれる狭い木造家屋が残っていた。夫婦単位で住めるよう光田が考案した6畳2間の住宅は他の療養所には見られず、強制隔離を象徴する建物となった。だが空き家になって久しく、いつ壊れてもおかしくない状態にある。

気温は30度ぐらいだろう。海から風が吹くせいか、それほど暑さを感じない。聞こえてくるのは、ツクツクボウシの蝉時雨と、園内の随所に設置されたスピーカーから流れてくる、高校野球を実況中継するラジオのアナウンサーの声だけだ。スピーカーは、目の不自由な人に場所を知らせる盲導響と呼ばれる装置ではないか。