人生なんて思い描いた通りにいくわけがない

書くにあたって、まずは現場の若い先生方がいまどのような心象風景を抱いているのかをリサーチしようとアンケートを取ってみました。

すると「あなたのいまの悩みは?」との問いには、「自分の思った通りに授業運営ができない」と記されていました。

ここです。私はドキっとしました。

裏を返せば、若い先生方は「思った通りに授業運営ができること」を前提にしているということです。つまり、「計画通りにすべてが執り行えると信じている人たちが教育の現場に携わり、子供と対面している」という現実をそこで知り、私は心底驚いたのでした。

世の中自分の思い描いた通りにさばけるわけはありませんよねえ?

何を隠そう、「思い描いた通りの道」を歩んでこなかった私です。

いや、私だけではありません。このコーナーをお読みのサラリーマンのみなさんだってそうだったはずですよね(実際私もワコールに勤務していたのでよくわかります)。

談志は教育者ではありませんでした。「俺は教育者ではない。教えるなんてことはしない。小言を言うだけだ」と常に言い放っていました。私が入門した時に言われた一言は「俺を快適にしろ」という言葉だけです。

「俺を快適にしろ」という談志の言葉

入門前に熟読した談志の著書『あなたも落語家になれる 現代落語論其2』には、弟子から毎月お金を取るという「上納金システム」についても記されていました。そして「古典落語50席を覚えれば誰でも落語家としての地位である二つ目にする」とまで述べていたものです。

これは実に罪な本でした。私はここから勝手に、「前座からもお金を取るということは月謝制なんだ」と理解しました。また、「だったら入門前に25席ぐらい覚えれば一年もしくは一年半ぐらいで前座という修行期間はクリアできるだろう」と気楽に思い描いたものでした。

つまり、「師匠は落語を教えてくれる先生で自分は落語を習う生徒」という「上納金」を媒介としたドライな間柄を想像していた身の程知らずを、谷底に突き落としてくれたのが最前の「俺を快適にしろ」という言葉だったのです。

そしてそんな甘えた若造をさらに覚醒させたのが、「修業とは不合理、矛盾に耐えること」という冷徹な言葉でした。

一連のあの言葉は、師匠から教えてもらうとか何かをしてもらう立場から、師匠を快適にする、つまり「師匠に何かをしなければならない立場」へとコペルニクス的転回を果たす宣言(というより脅迫)だったのです。

「俺はおまえにここにいてくれと頼んだ覚えはない。お前が勝手に俺の弟子になりたいと言ったんだ。それを受け入れてやるだけでも最大のウェルカムなんだぞ。だから俺の流儀に従え」とは耳にタコができるほどこれまたよく言われたものです。