呂布●生年不祥。字は奉先。丁原、董卓と自らの主人を2人も斬り殺しているため悪役の印象が強いが、北方版『三国志』では随一の人気を誇る。常人離れした腕力を誇り、乗馬「赤兎」とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞された。

実際の劉備はどういう人物だったのかといえば、私は徳川家康とイメージが重なる。我慢強く、自分の実力がないときは決して突出しようとしない。陶謙(とうけん)の遺言で徐州を預かったときも、自ら守り切る力がないと判断するや、呂布(りょふ)に投げ与えるようにして立ち去る。もし劉備がロマンチストなら徐州の支配者の地位にしがみついただろうが、彼はリアリストだった。リアリストだからこそ、捨てるべきところは捨てられた。自らの実力と時代の勢力図を読み誤ることなく、24年も流浪の軍として耐えに耐えて生きながらえ、千載一遇のチャンスを生かして巴蜀の地を得たのだ。

曹操の“非情”に対して劉備は“情”の人とされるが、実は強したたかで激しい人だったと思う。秀吉が世を去るまでは“いい人”だった家康も、その裏には怜悧な計算があり、掴んだチャンスは逃がさなかった。そのあたりはよく似ている。

ただし、三国鼎立(ていりつ)以後の劉備は冷徹なリアリストでいられなかった。自らの分身である関羽と張飛を失うと、生来の激しい本性があらわになった。関羽の仇討ちでは無理な呉攻めにこだわった挙げ句、敗走先で病死する。漢王室の再興より、義兄弟を失った怒りがまさったのだ。

中国の君子は死に際して「自分の子に器量がなかったら、おまえが継げ」と側近に言い置くことがある。劉備も丞相(じょうしょう)の孔明にそのように言い残した。最期は「徳の将軍」にふさわしいものだった。

(構成=小川 剛 撮影=大杉和広)