ダメとわかっていても破滅に向かう構造
そして高度経済成長の終わりの始まりは、空前絶後のバブル景気でした。その渦中にサラリーマンを経験していた私も、「還元給」という名の年には3つ目のボーナスをもらっていたものでした。
ところが、バブルはあっけなく消えていきました。その後の平成は、全時期にわたってほぼ不況という反動がやってきて、元号が変わったいまも相も変わらず儲からない話ばかり。他の先進国には見られないこの長い不況を鑑みると、大輪かと思っていた高度経済成長は、実はただの徒花だったのかもしれないと感じます。
アクセルのみでブレーキを知らないということは、挫折や負けを知らないことと同義。つまりは恥をかくことを知りません。だからこそ、ダメとわかっていても破滅に向かって突き進んでしまうのです。
その意味で、日本人は根っからの無謀な作戦を実行してしまう体質なのかもしれません。「恥をかきたくない、負けたくない」という人が、あのあおり運転の犯人のように攻撃的になっていくわけです。
受け身を知らない人がずっと攻め続けている構図の代表格が、ネットの世界でしょう。勝ち続けるためには常に弱い者を見つけるしかありません。いつ自分が逆の立場に置かれるかわからないのにもかかわらずです。
もっと「だらしなく、みっともなく」の精神を
日蓮聖人はこう言いました。「仏法は体のごとし、世間は影のごとし。体曲がれば影斜めなり」と。要は、日々の事件や出来事はあくまでも影のことであり、影を叩いても本質は治らないということです。
だから私は大人たちが子供たちに対して、アクセル思考による成功事例しか見せてこなかったことが、子供の自殺につながっているのではないかと思うのです。そして、あおり運転でつかまったあの犯人はわれわれの影、つまり身代わりだったのではないかと(だからといってあの犯人を無罪放免にしろというわけではありませんが)。
談志はよく、「ガキが悪くなるのは大人のせいだ」と吐き捨てるように言っていました。ここでいう大人とは、喩えていうのならば、恥をかくことを示さない学校の先生や、子供たちに受け身を教えない柔道の先生、あるいは股割りを徹底させない相撲の親方を指しています。
日本全体がもっと、「だらしなくていいんだよ」「みっともなくていいんだよ」「ダメでいいんだよ」という風潮に少しだけでも染まっていけば、世の中はもっと生きやすくなるはず。落語はいつもそう訴えかけてきました。