捕虜となったソ連軍兵士の53%が死亡した
このように、政治委員に対しては組織的な殺戮が遂行されたが、捕虜となった一般のソ連軍将兵も、戦時国際法にのっとった扱いを受けたわけではない。彼らは、非人間的な環境の捕虜収容所に押し込められ、労働を強制されて、死に至った。その背景にあったのは、またしても「世界観」であった。1941年3月の演説で、ヒトラーは有名な言葉を洩らしている。ソ連の敵は、「これまで戦友ではなかったし、これからも戦友ではない」と。敵であろうと戦士としての尊厳を認め、人道的に扱うことなどしないという意味であろう。よって、ソ連軍捕虜に対する待遇は、西側諸国の捕虜の扱いとは、まったく異なるものとなった。
捕虜たちは、食料も充分に配給されず、ろくに暖房もない捕虜収容所にすし詰めにされた上、日々、重労働に駆り出された。1941年の段階で、81の捕虜収容所が設置されているけれども、質量ともに不充分だった。飢餓と凍傷、伝染病のため、多数のソ連軍捕虜が死んでいく。反抗した、あるいは脱走をはかったとのかどで、射殺される者もいた。ゆえに、最終的な決算は恐るべき数字を示している。570万名のソ連軍捕虜のうち、300万名が死亡したのだ。実に、53%の死亡率だった。
この戦争犯罪に関しては、とくにドイツ国防軍の責任が問われている。捕虜に最低限の人道的な待遇を与えることは、軍の義務であり、専管事項でもあったのだが、国防軍指導部は、それを怠ったのである。
ユダヤ人絶滅は「国外追放失敗の結果」だった
かつて、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅は、ヒトラーの人種イデオロギーを動因とし、ナチの政権奪取から、欧州のほぼすべてを占領、ないしは同盟国とする過程で、実現・拡大されたのだと説明されることが多かった。けれども、現在では、ナチス・ドイツは最初からユダヤ人絶滅を企図していたのではなく、国外追放が失敗した結果、政策をエスカレートさせていったとする解釈が定着している。また、追放から絶滅への転換についても、ヒトラーの意図というアクティヴな要因と、それを受けた関連諸機関の競合・急進化というパッシヴな要因が相互に影響し合ってのことだったとする説が有力である。独ソ戦は、この過激化に対し、大きくアクセルを踏む作用をおよぼしたのであった。
そもそも、ナチ政権は、彼らのいう「ユダヤ人より解放された(ユーデンフライ)」ドイツを実現すべく、当初、国外排除の政策を進めていた。公職追放や市民権の剥奪、経済的な締めつけによって、ユダヤ人が自らドイツを去っていくように仕向けたのだ。ところが、ユダヤ人の貧困層、あるいは高齢層は国外に逃れようとせず、ナチスの眼からすれば、もっとも残ってほしくない分子が「滞留」したことになる。加えて、1930年代後半からの領土拡張により、ナチス・ドイツの支配下にあるユダヤ人の数は急増した。開戦と占領地増大は、この傾向にさらに拍車をかける。いうまでもなく、ユダヤ人の海外移住路が遮断されたからである。