独ソ開戦後に行われた「殺害の効率化」

ナチス・ドイツは、占領下のポーランド(ポーランド総督府)、仏領マダガスカル、また対ソ戦開始後はロシアの一部と、ユダヤ人を大量移住させる先を探しもとめた。しかし、そのいずれもが破綻した結果、システマティックな絶滅政策へと舵を切っていく。1941年3月には、ハイドリヒがゲーリングと、対ソ戦における絶滅の対象について協議している。同年7月31日、ゲーリングは、「ユダヤ人問題の最終的解決」に必要な措置すべてを取るに当たっての全権を、ハイドリヒに付与し、絶滅政策の総責任者にした。9月、ハイドリヒは、親衛隊大将に進級している。

独ソ開戦後には、前述の出動部隊が組織的な殺戮に踏み切った。彼らが得た経験をもとに、射殺から毒ガスの使用へと、殺害の「効率化」が行われた。1941年9月、アウシュヴィッツ強制収容所では、ソ連軍捕虜600名などに対してガス殺の実験が行われたが、これは同収容所におけるツィクロンBを用いたガス殺の最初の事例である。同年12月には、ポーランドのヘウムノに、強制労働ではなく、ドイツ語でいう「工場式(ファブリークメーシヒ)」の殺戮を目的とする、最初の絶滅収容所が設置される。一方、やはりポーランドの占領地で、「ラインハルト」の秘匿名称のもと、恒久的な絶滅収容所も建設されつつあった。

1942年1月20日、ハイドリヒは、ベルリン郊外ヴァンゼーに親衛隊公安部が持っていた保養施設に、ユダヤ人政策に携わる関連機関の実務者たちを招集し、「最終的解決」を協議した。この「ヴァンゼー会議」によって、労働可能なユダヤ人には、劣悪な条件での労働を課して自然に死に至らしめ、労働できない者は毒ガスで殺害するとの計画が了承された。絶滅政策が、正式に国家の方針として採用されたのだ。独ソ戦で試された絶滅政策が、いまやヨーロッパ各地に拡大されることになったのである。

「ペテルスブルクをとろ火で煮込む」政策

また、そのような「世界観」にもとづく絶滅政策は、軍事的合理性を以て遂行されるべき作戦指導にも入り込んでいた。1941年9月、ドイツ北方軍集団はレニングラードへの連絡路を遮断した。しかし、北方軍集団は、包囲したレニングラードを一気呵成いっきかせいに陥落させるのではなく、兵糧攻ひょうろうぜめにして干上がらせる策を採った。軍事的には、大きな損害が出ることが不可避の市街戦を避けるという理由付けがなされている。しかし、ヒトラーは実際には、レニングラードを「毒の巣」とみなし、その守備隊のみならず、住民もろともに一掃することを欲していた。彼の相談にあずかる国防軍首脳部も、「ペテルスブルクをとろ火で煮込む」ことを望んだ。

北方軍集団司令部に勤務していた、ある将校は、このように記している。「この都市に進入する企図はない」。レニングラードは「ボリシェヴィズム生誕の地」であり、ゆえに「かつてのカルタゴのごとく、地上から消滅させなければならぬ」。こうして、北方軍集団麾下きかの第18軍が、大都市レニングラードを取り囲み、外界からの物資輸送を遮断することになった。