宗教的な儀式としての筋トレ

話を元に戻します。冒頭に挙げた事件の数々についても、「もうダメだ、誰かに頼ろう」というメタ認知が働けば、他人に頼むなり、公的機関に助けを求めるなりして事前に防げたのではないかと私は思うのです。

そう、「これ以上はヤバい」という感覚を毎日磨かざるを得ないのが筋トレなのです。こうしたある意味で命がけのトレーニングを12年間も行っていると、筋トレは実は、スポーツではないのではないかとさえ感じてしまいます。

スポーツは本来、他者と優劣を争うことが目的です。個人競技なら個人、団体競技なら相手チーム、さらに場合によっては国家同士が、1点でも多く点を稼ぐことを目指します。あるいは格闘技系なら相手を打ち倒すかと、他人と競り合い優劣を決めるのが基本です。

これに対して筋トレは、筋肥大を目指すにしても、挙げられる重量のアップを目指すにしても、あくまでも自分にベクトルを向けたトレーニングです。極論すれば、筋トレとは他者との比較を目指すものではなく、「自分との闘い」に集約させていく宗教的範疇に属するものではないかとすら妄想してしまいます。

パワーリフティングのような種目ならば、相手より1グラムでも重いものを挙げることを目標とします。しかし、それですら「体重100キロの人がベンチプレス100キロ挙げた場合と、体重60キロの人が同じように100キロ挙げた場合」とでは、優劣の基準が微妙に変わってくるものです。

また、同じ筋肥大を比較するような大会でも、体重やら年齢などからの観点で評価の軸を変えるアローワンスを適用しています。つまり、他者ではなく限りなく“対自分”にフォーカスするスポーツが筋トレなのです。

争いのない「ユートピア」はこうして完成する

ここで重要なのは、自分の限界を知れば、他人の限界をも予想できるようになるということです。

立川談慶『デキる人はゲンを担ぐ(100万人の教科書)』(神宮館)

実際、筋トレに打ち込んでいる人は、ベンチプレスで追い込んでいる人を見れば、「これは補助しなきゃヤバい」という状況がすぐに分かります。これこそ、昔からよく言われる「困ったときはお互い様」という言葉に言い表される、「迷惑のシェア」なのです。

さらに、こうした自然発生的なコミュニケーションを積み重ねていくと、どうなるでしょうか? そこに見えてくるのは、きっと争いのないユートピアではないかと私は思います。あるいは、そんな大層な世界平和を目指さなくても、自分の限界を知ることで他人に優しくなれるなら、筋トレに取り組む価値はあるはず。

自らの限界に触れ、そしてその限界をさらに超えようと体のみならず心も鍛えられるこのスポーツ、ぜひお勧めします。

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