先生の声が静かだからこそ集中して聞ける
でもわたしの考えでは、これは実は先生の力不足を露呈しているだけなのです。
イエナプラン教育やドルトン・プラン教育、シュタイナー教育、また先にも紹介したモンテッソーリ教育など、いわゆるオルタナティブ教育の実践においては、教師が教室の子どもたちに大きな声で話しかけるという場面は、意識的に最小限にとどめられています(リヒテルズ直子・苫野一徳『公教育をイチから考えよう』69頁)。
教師が大きな声をかけると、子どもたちは威嚇されているように感じて、安心して学校・学習生活を送ることができなくなるからです。それはつまり、個々人が十分に尊重されていないということです。
これらの学校の実践を見に行くと、先生が、とても静かに、やさしく子どもたちに声をかけているのに気づきます。子どもたちは、自分が一人の個人として尊重されているのを感じているはずです。全体に声をかける時でさえ、先生の声はとても静かです。大声を張り上げなくても、子どもたちはちゃんと先生の話を聞きます。むしろ、静かな声だからこそ、しっかり集中して聞いているほどです。
「集団統率」をせざるを得ないのが現状
子どもたちは、自分が尊重されているという確かな手応えがあったなら、怒鳴られなくても先生の話をちゃんと聞くのです。恐怖ではなく、信頼関係がそうさせるのです。
怒号を発する先生が力不足だというのは、そういうことです。それはつまり、子どもたちとの信頼関係をちゃんと作れていないということです。もう少し言うと、子どもたちを信頼し、尊重することを通して、互いの信頼関係を築くことができていないということなのです。
とはいえ、これについてもまた、学校の先生を過度に責めないようにしたいとわたしは思っています。個人的には、子どもを怒鳴り散らしてばかりいる先生なんてとんでもないと正直思います。でも、「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で」が学校の基本システムである以上、子どもたち一人ひとりを尊重したいと考えている先生でさえ、いくらかの集団統率をせざるを得ないのが現状なのです。