「黙って座って先生の話を聞く」のは自然な学びか

学級経営だけでなく、授業のあり方もまた、「小1プロブレム」を引き起こす一つの理由になっています。

小学校では2020年から全面実施される新学習指導要領では、「主体的・対話的で深い学び」が謳われています。でも、「黙って、座って、先生の話を聞いて、ノートを取る」時間が多くを占めるクラスは、今なお根強くあります。

こうした授業においては、とにかく子どもたちを黙らせ、座らせなければなりません。必然的に、子どもたちの主体性を尊重するより、「言われた通りに動かす」ことが目指されることになります。

でもそれは、子どもたちにとって本当に自然な学びと言えるでしょうか?

20世紀の有名なアメリカの教育哲学者、ジョン・デューイは、人間には学びたい(知りたい)欲求、自己表現したい欲求、コミュニケーションしたい欲求、物を作りたい欲求などの、本能的欲求があると言っています。しかしこれらの本能的欲求が、学校に入った途端に殺されてしまうのだと(ジョン・デューイ『学校と社会』107~111頁)。

勉強が「やらされるもの」になる”システム”

たとえば、ある子どもが虫にとても興味を持ち、寝ても覚めても虫のことを知りたい、調べたいと思ったとしても、学校では、「今は算数を勉強する時間です!」と別のことをやらされる。算数が得意で、どんどん学び進めていきたいと思っても、「まだそこまで進んではいけません」と言われてしまう。友だちとコミュニケーションをしながら学びたいと思っても、「黙って、座って、先生の話を聞きなさい」と指導されてしまう。

結果、子どもたちは学びたい欲求をどんどんと失っていくことになる。そうデューイは言います。そして、勉強とは「やらされるもの」「イヤなもの」という意識を膨らませていくことになるのだと。新しいことを知ったり、何かができるようになったりすることは、本当はとんでもなく楽しいことのはずなのに!

でも、それが今の学校の“システム”なのです。「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で」。「決められたことを、決められた通りに、黙って、座って、話を聞いて」……。

本当は、このシステムのほうが、人間の自然な学びの観点から言っておかしいのではないか? そう、問い直す必要があるとわたしは思います。小1プロブレムは、本当は学校システムのプロブレムなのです。次回以降の連載では、このシステムをどうつくり直していくことができるか、論じていくことにしたいと思います。

苫野一徳(とまの・いっとく)
熊本大学教育学部准教授
1980年生まれ。博士(教育学)、専門は哲学、教育学。著書に『教育の力』(講談社現代新書)『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)『勉強するのは何のため?』(日本評論社)他多数。全国の多くの自治体や学校等でアドバイザーも務める。現在、共同発起人として、幼小中学校が一体となった軽井沢風越学園の設立を準備中。
(写真=iStock.com)
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