合意なしでアメリカに戻ったら上司に何と言われるかと、コーエンはおそらくピリピリしていたのだろう。もちろん、交渉がまとまらないまま彼が日本を去っていたら、彼の交渉相手もまた、勝利を主張することはできなかったはずだ。これが期限の重要な点なのだ。一方の側にとって交渉が終わったとき、もう一方の側にとっても交渉は終わっているのである。
期限が双方の側に等しく影響を及ぼすことを認識しているネゴシエーターは、期限を利用して、犠牲の多い引き延ばし戦術を阻止することができる。たとえば車のセールスマンは、あなたが交渉に費やした時間が増えるにつれて、交渉をまとめたいというあなたの思いも強くなることを期待して、価格交渉を長引かせようとすることがある。この戦略を阻止するためには、車を買う交渉に入る前に、交渉に使える時間は1時間しかないとセールスマンに告げるようにすることだ。
ネゴシエーターが利用できる最も自然な期限の1つに、終業時間がきたら家に帰りたいという相手の気持ちがある。パシフィック・サイクルの業務担当副社長、ロバート・イポリートは、2000年に「MBAジャングル」誌で次のように述べている。
「中国に出張するようになって間もないころ、大きな購入契約を取り決めるため、ある工場のトップと交渉した。私は午前9時に工場に着いた。交渉相手はとてつもなく頑固な男で、厳しいやり取りを7時間続けた。ところが、5時数分前に彼は譲歩し始め、無事、交渉をまとめることができた。これなら5時ではなく9時半に終えられただろうに、なぜそうできなかったのかと、私は通訳に尋ねた。通訳はこう答えた。国の役人であるこのトップは、勤務時間中は早く決着をつけても何の得にもならないが、もう勤務時間が終わったので家に帰りたいのだと。次にその工場に行ったときには、私はトップに会う時間を4時に設定し、物事は迅速かつスムーズに運んだ。今では私は、どんな交渉に臨むときでも、たとえば1時間後に、別の約束があると宣言する。時間がきて、このまま交渉を続けるほうが私の得になると思う場合には、秘書に電話をかけ、『次のアポイントメント』を取り直してくれと指示する。これによって交渉での私の力はかえって強くなる。相手は私のその行為を誠意と──ときには譲歩とさえ──みなすからだ」
こちらの期限を相手に明かすべきか
あなたに期限があって相手がそれを知らない場合はどうすればよいだろう。それを相手に知らせるべきだろうか。私の調査では、自分の期限を隠すネゴシエーターは決裂のリスクを大幅に高めることが明らかになっている。自分の期限を知っていると早めに譲歩せざるをえない。それに対し相手は、交渉の時間はまだたっぷりあると思っているので、じっくり構えてあなたが先に譲歩するのを待つことができる。相手のこうした引き延ばし戦術は、時間切れになる前に合意に達する可能性を減らすことになる。期限の前になんとか合意に至ったとしても、あなたは交渉をまとめるための時間との密かな競争でずいぶん譲歩しているので、その合意はあなたにとってきわめて不利なものになる可能性が高いのである。