「何をしたいか?」に答えられない日本人

やはり私たちは、見た目で人をラベリングして、自分に都合がいいように分類しながら生きています。自分と似通った雰囲気の人には心をオープンにして接するけれど、畑違いな人に対しては「無関係」というラベルを貼って除外します。

あるいはもっとわかりやすく、その人の地位や肩書によってラベルをペタッと貼っているケースも多いでしょう。アメリカで教鞭をとっていると、日本人の“肩書好き”を実感します。

自己紹介のとき、日本人の多くが所属する企業名や大学名を名乗るのに対し、他の国の生徒は自分がどんなことに興味を持ち、どんな仕事に就き、何を学んでいるかを話し、自分という人間を知ってもらおうとします。

「◯×会社の△□です」と名乗って自己紹介を終わろうとする人に、「それで、あなたはこの集まりでどんなことをしたいですか? 何ができますか?」と問うと、答えに詰まってしまう方がほとんどです。

会社名や学校名はあなたという人間を語ってはくれません。

もしかすると、過度に肩書やブランドに頼る人やこだわる人は、心配性の人なのかもしれません。生身の自分に自信が持てず、肩書という仮面で必死に自分の本質を隠しているのでしょう。

深く追求されれば自分の底の浅さが露呈してしまう。そんな恐怖心と日々戦っているのだとしたら、心休まるときがないことでしょう。

しかし、少し酷な言い方になるかもしれませんが、肩書なんてものは、人生の後半になればゴミも同然です。決して人の心を救ってくれるものではないのですから、本当の自分はどこにあるのか、知ろうとすることも大切です。

肩書を捨てなければ、人間同士の付き合いはできない

世の中は、肩書を外した人間同士で付き合ったほうが、断然楽しくなります。私の主催するリトリートでは名札さえつけません。そこで意気投合した者同士が仲よくなり、後日、仲よくなった相手が大企業の重役と知ることもあります。

けれど、肩書を超えたところで互いをよく知ったあとであれば、その肩書によって目が曇ることも余計なフィルターがかかることもありません。人間同士の付き合いができます。

ラベリングをすることは、せっかく出会った縁を自ら捨ててしまうことにもなりかねないのです。

また、何者かわからないと不安だからラベリングをして安心感を得ているところがあると思うのですが、裏を返せば、ラベリングしてしまったことでその人の本質が見えなくなり、かえって不安を煽(あお)るようなことにもなりかねません。

大らかな人というラベルをペタリと貼った相手が些細なことで怒る姿を見たら、混乱します。堅実を絵に描いたような人というラベルを貼った人が、ギャンブルで身を持ち崩すことだってあり得ます。

これからは、初めて出会った人にラベルを貼るのはやめましょう。できるなら、旧知の人に貼ったラベルも剥がしてみましょう。

今まで見えなかったものが、きっと見えるようになるはずです。

松原正樹
1973年、東京都生まれ。ニューヨーク在住。千葉・富津市のマザー牧場に隣接する臨済宗妙心寺派佛母寺住職。アメリカのコーネル大学東アジア研究所研究員。ブラウン大学瞑想学研究員。コーネル大学でアジア研究学の修士号、宗教学博士号を取得後、カリフォルニア大学バークレー校仏教学研究所、スタンフォード大学HO仏教学研究所を経て、現在に至る。グーグル本社で禅や茶道の講義も行う。
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