「金を数えているほうが安全じゃないか」
78年2月、大野は、つてを辿って、広島の入団テストを受けることになった。カープの一軍は宮崎県でキャンプを張っており、二軍の一部が広島県呉市の二河球場で練習していた。大野はそこに加わった。
「寮に泊まってカープ専用のバスで球場に向かうんです。遠投や50メートル走をやらされるのかなと思ったら、まったくそういうのはなかった。みんなと一緒に練習して、ブルペンで投げる」
合流4日目のことだった。二軍監督だった野崎泰一とスカウトの木庭教の前でピッチングを見せることになった。宿舎に戻ると木庭の部屋に呼ばれた。
木庭は「一応採用する」と切り出した。そのとき、大野は飛び上がりそうになった。そして木庭はこう続けた。
「けど、お前さん、信用組合で金を数えているほうが安全じゃないか」
諭すような静かな声だった。プロ野球選手はギャンブルの世界である。失敗しても何も残らない。大丈夫かと訊ねた。
契約金は出せないが支度金100万円を出すという。給料は月13万円。信用組合は手取りで約5万円。倍以上だと大野は嬉しく思ったという。
一軍の初登板は「防御率135.00」という大失敗
大野はプロ1年目の5月から二軍戦であるウエスタンリーグに登板。3勝目を初完投勝利で挙げると8月には一軍に昇格している。
そして9月4日には一軍初登板。阪神タイガースを相手に2対12で大きく差をつけられていた8回表に大野はマウンドに登ったのだ。ところが――。
打者8人と対戦して、抑えたのはたった1人。5安打2死球。5安打の中には満塁本塁打が含まれていた。すぐに大野は二軍に落とされた。この年、一軍登板はこの試合のみ。防御率は135.00――という記録だった。
どん底に落とされた大野に運があったのは、シーズンオフに広島に移籍してきたある投手と出会ったことだ。
江夏豊である。
「出雲信用組合時代、ぼくは江夏さんにあやかって同じ背番号“28”をつけていました。同じサウスポーとして憧れの人、雲の上の人じゃないですか。一方、ぼくはどこの馬の骨か分からないような選手。接点がない。一言でも話ができれば、という感じでしたね」
大野によると、監督の古葉竹識が江夏に同じ左腕投手である大野の面倒を見てくれないかと頼んだという。