「いつまでも江夏さんを追いかけていてはいかん」

この78年シーズン、大野は3勝を挙げている。そして80年シーズンを最後に江夏は日本ハムファイターズに移籍。その後、大野は抑えを任されることになった。

「江夏さんがいなくなって、改めてその偉大さに気がついた。それまでぼくたちは江夏さんに最後、任せればいいと考えていました。当時、クローザーというのは、今のように1イニング限定ではなくて、7回、8回から投げて最後まで投げきる。自分は何度も失敗するんです。ぼくが出ていくと、スタンドから“お前、もう投げるな”って野次を飛ばされる。江夏だったらな、江夏がいたらなって比較される。それがすごく苦痛でした」

あるとき、自分が江夏の幻影に捕らわれていることに大野は気がついた。

「江夏さんは小さいときからの憧れの人でした。まさかその人とカープで一緒になって、野球を教わることができるなんて思ったこともなかった。自分は江夏さんに憧れ、江夏さんを追いかけていた。でも、ちょっと待てよと思った。プロで成長するにはいつまでも江夏さんを追いかけていてはいかんのではないか。江夏さんは別格の存在だ。自分のスタイル、大野豊のスタイルを出す。そう考えを変えるようになった」

自分の長所は何か、江夏よりも勝っている部分はないのか。

「江夏さんに勝てるのは若さとボールの勢い。メンタル的な部分、コントロールとか技術的な部分ではまだ勝てない。それはこれから磨きを掛けていけばいい。そう考えると楽になりました」

メジャーからの打診を断り、43歳まで現役を続けた

大野は81年から83年まで抑えを務めたあと、84年から先発に転向した。そして再び91年から抑えとなり、2年連続でセーブのタイトルを獲得している。

93年のオフシーズンにはメジャーリーグのカリフォルニア・エンゼルス(現・アナハイム・エンゼルス)から獲得したいという打診があった。37歳になっていた、大野の投球術をメジャーリーグが認めたのだ。しかし、大野はこれを断り、カープに残留。98年、43歳まで現役を続けた。

大野の55年生まれは、当たり年とされている。掛布雅之、広島でバッテリーを組んでいた達川光男、大洋ホエールズの遠藤一彦、ジャイアンツの山倉和博、ロッテ・オリオンズの袴田英利などがいる。

なにより江川卓だ。

江川は高校時代から規格外の存在だった。作新学院で甲子園に出場。超高校級の投手として騒がれた。未だに高校時代の江川が最も凄いと評する野球関係者は少なくない。