やはり生き残る人間には共通点がある
ドラフト会議ではその選手の意志とは関わらず、くじ引きによって入団できる球団が決まってしまう。誤解を恐れずに書けば、ドラフト会議は理不尽だから人の心を惹きつける。
昨年、ぼくは『ドライチ』(カンゼン)というドラフト1位指名されてプロ入りした選手たちを追ったノンフィクションを上梓した。ドラフト1位指名されるのは1年間でたった12人しかいない(高校卒業選手と大学卒業・社会人選手に別れていた期間は24人)。日本全国に散らばっている星の数ほどいる野球少年の中から選びに選ばれた精鋭である。彼らはみなずば抜けた運動能力、才能の持ち主のはずだ。ところが、そのドライチの中でプロ野球選手として成功を掴むのは僅かである。
その差はどこにあるのか――。元ドライチに話を聞きながら、ぼくはずっと考え続けていた。そして、その答えは朧気に見えてきた
今年はドラフト外でプロ入りした元選手7人に話を聞き『ドラガイ』という一冊にまとめた。そこでやはり生き残る人間には共通点があると確信するようになった。
663人がドラフト外でプロ野球選手となっている
新人選手選択会議――通称ドラフト会議が始まったのは1965年のことだ。指名人数は、年度により、一球団4人、あるいは6人と制限が設けられていた。そして、ドラフト会議で指名されなかった選手については「ドラフト外」の入団が認められていた。90年の制度改定までに計663人がドラフト外でプロ野球選手となっている。
彼らはドラフトという“ふるい”から落ちた人間である。しかし、その中にはドライチよりも結果を残した選手も少なくない。
例えば、元広島カープの大野豊――。
本格的に野球を始めたのは中学校からだった。最初は外野手、2年生から投手になった。プロ野球選手になることを夢見たこともない。それどころか、高校に進む気もなかったという。両親が早くに離婚しており、大野は女手一つで育てられた。早く仕事をして、母親を楽にしたいと考えていたのだ。
すると母を始め親戚中の人間から、高校は出ておくようにと猛反対された。そこで出雲商業高校に進学した。簿記や算盤は、将来役に立つだろうと考えたからだ。野球のため、ではなかった。