高校卒業後は出雲信用金庫の「軟式野球部」に進んだ
出雲商業でも2年生夏までは中堅手兼救援投手という扱いだった。“エース”となったのは、最上級生になってからのことだ。
しかし、高校3年生の夏の県予選では1回戦負けを喫している。
「(対戦相手の高校には)ぼくよりも一回り躯の大きい左投手がいて、なかなか打てなくて嫌だなと思っていた。すでに気持ちで負けていたんです」
夏になると食欲がなくなり体重が落ちていく。そもそも大した投手じゃなかったんですよ、と大野は微笑んだ。
それでも、野球は続けたいと思っていた。島根県には社会人の硬式野球チームはない。残る選択肢は軟式野球だった。県内では強豪チームとして知られる出雲信用金庫軟式野球部に進んだ。しかしあくまでも業務が優先のアマチュアチームである。
大野は軟式野球の世界でも無名のままだった。どこにでもいるような、少々野球の上手い若者だった彼に転機が訪れるのは、就職から3年目のことだった。出雲高校との練習試合が組まれたのだ。
「プロに挑戦してみたい」という気持ちに火が付いた
出雲高校は秋の島根県予選を勝ち抜き、中国大会への出場権を得ていた。島根県内の高校では対戦相手の選択肢は限られる。そこで近隣の出雲信用組合野球部に練習試合の打診があった。
このとき、大野は高校卒業以来、3年ぶりに硬球を握った。久しぶりの硬球、そして金属バットの打者ということで、かなり打たれると覚悟していたという。
ところが、高校生のバットは次々と空を切る。大野は5回を投げて、16人の打者に被安打1、三振は9者連続を含め、13個を数えた。
「本当に練習相手になればいいという気持ちで投げてました。でも全然バットに当たらない。ピッチャーの本能なんでしょうかね、やはり色気が出てきて、打たれたくなくなった。そして、自分の中の何かに火が付いた。プロに挑戦してみたいと。今までそんなことを一度も考えたことがなかったのに」