西郷の銅像建設運動は、1889年、大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって始まる。これで逆賊ではなくなり、薩摩出身者が中心になって西郷顕彰に動いた。同年10月には銅像のデザインが新聞の懸賞広告で呼びかけられた。この時点でつけられた条件を見ると、銅像は馬上で高さ3~6メートル、容姿は厳かにして「君が維新の元勲として朝廷に大功偉績」をなしたことを示すもので、「陸軍大将の軍服」を着用とされている。未定ではあるが、「東京市内の公園」に設置するとされている。
しかし、一度は逆賊の汚名を着せられた西郷像については、デザインも設置場所もなかなか落着しなかった。皇居内に設置する案もあったが、薩摩出身者ならばともかく、幕臣であった勝海舟などは一貫して銅像建設そのものを疑問視していた。
さらに、同時期に制作された楠木正成像が皇居外であるにもかかわらず、西郷像が皇居内に置かれるのはおかしいという異論もあった。結局、場所は上野公園に決定し、平服に犬を連れて兎狩りをする姿とされた。
銅像制作を担当したのは高村光雲だ。息子の光太郎がその制作風景を書き残している。
政府要人を集めた除幕式が1898年12月に行われ、その後、西郷像は上野だけでなく、東京の代名詞になる。上野がキーステーションであったことが大きい。上野駅から列車に乗る時、行列が伸びて西郷像の周囲にまで上がってくることもあった。特に東北地方からの上京者が最初に目にする東京のシンボルとなったのである。
上野公園設立の立役者だったオランダ人医師像
上野公園には、他にも明治政府に尽くした要人の銅像がある。アントニウス・F・ボードワン博士像だ。ボードワンはオランダ人の医師で、幕末、医学を伝えるために招かれた。医学者としてももちろんだが、ボードワンの功績は上野公園そのものの建設を主張したことだ。
維新前、上野公園は徳川将軍家の聖地・寛永寺であった。そのため、上野戦争では徹底的に破壊され、同寺に立てこもった彰義隊は虐殺され、その遺体は見せしめとして野ざらしにされた。そして明治政府は、寛永寺の跡地に、御徒町にあった大学東校(後の東大医学部)の付属病院を建設しようとしたのだ。