日大講堂には3万5000人の学生が集結

古田は多くの右翼団体を動かす力があった。時の首相・佐藤栄作を総裁にして古田が率いる「日本会」という組織は、政権中枢と密に結びついていた。

橋本は、当時の日大は「学生に徹底した思想統制を行い、産学共同路線に身をすり寄せ、中堅労働者養成所としての役割を担ってきた」という。さらに「戦後日本の国家意思の実現を担う役割を自ら任じる」大学だったとしている。

9月4日、学校側はバリケードなどの撤去を含めた仮処分執行をもとめ、機動隊が投入された。2万人近い学生たちは白山通り、靖国通り、神保町を解放区にし、市民や労働者たちと共に闘った。逮捕者は154人に及んだが、機動隊を完全に打ち破ったのである。

暴力装置を使って恥じない古田も、ついに負けを認めたかのような声明を出す。9月30日、両国講堂(1983年に解体)において大衆団交に応じるといったのである。当日、日大講堂には3万5000人の学生が集結した。

学生側には正義のカードが山ほどあった。古田以下理事たちに自己批判の文書にサインをさせた。紙吹雪が舞い、日大校歌が高らかに歌われた。

「本当の意味で全共闘を作ったのは日大です。これは文句なしに本当に。単に日大全共闘というのは武装した右翼とのゲバルトに強かっただけじゃないです。

本当に、あのね、学生大衆の正義感と潜在能力を最大限発揮した、最大限組織した、ボク、あれは戦後最大の学生運動だと思います。今でも、あれ、考えるとナミダが出てきます」

2015年1月30日に開かれた「日大930の会公開座談会」で、東大紛争のリーダーだった山本義隆・元東大闘争全学共闘会議代表は「日大闘争」をこう評価した。

日大闘争も東大闘争も学生たちの敗北で終わったが……

だが直後に、政治が動いた。佐藤栄作は閣僚たちを集め、日大の大衆団交は常軌を逸脱している。法秩序の破壊すら進んでいると批判したのである。それを受けて古田は理事会を開き、大衆団交で交わされた約束を無効だといい出したのだ。

秋田議長以下8名に逮捕状が出され、古田は退陣を拒否する。

橋本は「沖縄返還をしゃにむに推し進めようとしていた佐藤に、全国の8割方の大学で闘争状態に入っていることは脅威であった」に違いなかったという。

バリケードに残った数十名の日芸の学生を1000人の機動隊と私服警官が包囲した。ガス弾が撃ち込まれ、全員が逮捕される。

翌年の1月18日、東大に8500人の機動隊が導入され、闘争のシンボルであった安田講堂は陥落する。日大は授業を再開し、全員を卒業させたが、それを嫌い、退学した者は1万人にもなるといわれる。橋本もその一人だった。その年の秋、古田は日大の会長に就任するが、それから約1年後に死亡する。

結果だけを見れば、日大闘争も東大闘争も学生たちの敗北で終わった。しかし、彼らが権力側に身体を張って訴えた、大学の自治を学生側に取り戻す大学改革の志は、細々ながらも受け継がれ、今日につながっている、そう思いたい。

バリケードの中に青春があった。自分たちは正しいことをしているという満足感があった。たとえ、それがはかない一炊の夢だったとしても、彼らは自らの全人生をかけて挑み、闘い、悔いのない大学生活(本当はいっぱいあるだろうが)を送って去っていったのである。