イスラエルは1948年5月14日に独立を宣言しましたが、これに反発するアラブ諸国との間で第1次中東戦争(イスラエル独立戦争)、1956年7月には第2次中東戦争、1967年6月には第3次中東戦争が勃発し、イスラエルがゴラン高原、東エルサレムを含むヨルダン川西岸全域、ガザ地区、シナイ半島を占領しました。これに対しアラブ諸国は1973年10月に失地回復のため、イスラエルに攻め込み、第4次中東戦争が勃発しています。何れの戦争でも、イスラエルは敗北することはありませんでしたが、アラブ諸国との間の関係は決定的に悪化することとなりました。
その後、シナイ半島を占領されたエジプトとの間で交渉が行われ、1979年3月にエジプト・イスラエル平和条約が締結されましたが、これを主導したエジプトのサダト大統領は1981年10月に、この平和条約をアラブに対する裏切りであると反発する勢力により、暗殺されることとなりました。このような現代史が、イスラエルに高い地政学リスクをもたらしています。
エルサレム帰属問題はパレスチナ問題の根幹
ヨルダン川西岸地区、ガザ地区には数多くのパレスチナ人が居住しています。こうした地域に対するイスラエルの実効支配に対し、パレスチナ人の抗議活動は1967年の第3次中東戦争以降、特に強くなっており、これまでもパレスチナ武装勢力のよるテロ、抗議活動や武力衝突等が数多く発生しています。
1987年12月9日には、ガザ地区で発生したイスラエル人のトラックとパレスチナ人のバンの衝突事故で4人が死亡した事故が発生し、この事故をきっかけに武力衝突が発生しました。この衝突は1993年8月のオスロ合意及びパレスチナ自治政府の設立に伴い沈静化する時まで続きました。これは第1次インティファーダ(パレスチナチ民衆の蜂起)とよばれています。
1993年に交わされたオスロ合意は、中東和平を実現するという点において、画期的な合意でした。イスラエル、パレスチナ自治政府が相互に国家承認(二国共存)し、パレスチナ自治政府の暫定自治の開始から3年以内に重要問題を解決するという文言なども盛り込まれました。この重要問題の中に、ヨルダン川西岸のユダヤ人入植地の問題と共に、エルサレムの帰属問題も含まれていたのです。
つまり、イスラエル、パレスチナ自治政府ともエルサレムの帰属問題の重要性を認識し、当然ながら、国際社会もパレスチナ問題の根幹と位置付けていることから、エルサレムの帰属問題は「二国共存」の象徴的問題と捉えられていると言えます。
しなしながら、この中東和平も頓挫しています。2000年9月28日には、イスラエルの当時のシャロン・リクード党首・外相(後に首相)が1000名の武装した側近と共にアル=アクサー・モスクに入場したのがきっかけに衝突が頻発、この状況は2005年2月のシャルム・エル・シェイク(Sharm El-Sheikh)でのイスラエル・パレスチナの首脳会談による合意まで続き、この期間だけで3000人以上が死亡したと言われています(第2次インティファーダ)。
なぜトランプ政権はエルサレム首都宣言をしたのか
第2次インティファーダの起きるきっかけがエルサレムで起こった事件であったように、エルサレムの帰属問題はパレスチナ問題の根幹と言えます。このような環境下で、今回のトランプ政権によるエルサレム首都宣言が発表されました。イスラエルとしては、エルサレムを首都とすることは悲願であることは間違いありません。しかしながら、そのイスラエルですら、現在でも市内中心部の神殿の丘について慎重に対処しており、この問題が非常に大きいことを認識しています。
昨年の米大統領選挙において、トランプ大統領はエルサレムをイスラエルの首都に認め、在イスラエル米国大使館をエルサレムに移転することを公約に掲げました。トランプ氏は2017年1月に就任した直後、米国大使館をテルアビブからエルサレムに移転すると発表しました。しかしながら、トランプ政権内、パレスチナ自治政府及び国際社会からの反発により、移転計画は、一旦は頓挫しました。
トランプ政権が突然、今回の宣言に至った背景には2点挙げることが出来ます。1点目は実績に乏しく、公約をほとんど実現していないトランプ政権として、昨今の支持率の低下を食い止めるため、何かしら実績を挙げることが必要であったという点です。