U30にとってのサブカル遭遇から育成まで
カドカワの圧倒的な強みは、ニコニコ動画の興隆がちょうどU30のデジタルネイティブ世代にとってのサブカル遭遇から育成時期をカバーしたところにある。デジタルネイティブの子供がニコニコ動画でサブカルのコンテンツに出会い、見続けて成長し、やがて自らも発信するようになるというサイクルを作ったのだ(今の小学生はニコニコ動画よりもYouTubeだそうだが)。IT普及以前に生まれてITを身につけようとしている私のようなデジタルイミグラント世代が想像する以上に、デジタルネイティブな彼らにとってニコニコ動画が持つ意味は大きく、人生に浸透しているのだ。
クロスメディア化が前提であるため、カドカワは他社なら拾わない、あるいは拾い損ねてしまうような才能もすくい上げることができるのもすごいところだ。例えば最近のライトノベルでは、心情の詳細な描き込みが少なく、ひたすら場面記述と人物のセリフで進んでいくものが目立つ。それは書き手が幼少期から漫画やアニメを浴びるように読み、視聴して育った世代であるがゆえに、テキスト発想ではなく映像発想で文章を紡いでいくからだろう。アニメ化・映画化・ゲーム化などの映像化手段を持つカドカワなら、そういった文章を「未熟」と切り捨てない。
映像発想のテキストは、文章の巧拙にかかわらず、今とても増えている。それは、先述の通り漫画やアニメ文化の爆発的な普及後に育ち、幼少期からそれらを浴びるように「摂取」してきたU30にとって、テキストで状況や心情を緻密に書き込んでいくような作品は話の展開のスピード感に欠け、退屈に思えてしまうというのも一因だろう。畳み掛けるような驚きや笑いの連続、次々と扉を開けていくような、躍動感ある冒険がウケるのだ。『横浜SF』の作者も(彼自身の文章は特に短編などを見るとうなるほど上手い)、コミック版のあとがきで「私は小説はせいぜいたしなむ程度で、漫画のほうがよほど好きである。しかし自分では絵がまったく描けないので、代わりに小説を書いている」と、漫画化を想像しながら創作していたと述懐している。彼などは、まさにカドカワ的な作家と言えるのではないだろうか。
ネットと通信制高校制度を活用した「N高」新設の時といい、カドカワ(N高を創設したのは合併前のドワンゴ)はデジタルイミグラントの度肝を抜くような発想を次々と打ち出すが、デジタルネイティブにとってはカドカワの発想はとても理解しやすいらしい。U30を取り込んでくまなくマネタイズできるとは、なんて戦略的で賢いのだろうか。……そう考えながら、今日も私は横浜駅構内を果てなくぐるぐるとさまよっている。