【高杉】享年が63でしょう……。若いなあと思います。しかしながら、今回、テレビドラマ化されるのを機に、作品を読み返してみたのですが、完全燃焼されています。戦後の化学業界の発展に寄与する会社を創業し、自社技術にこだわり、人を育てて、炎が燃え尽きるように世を去って逝った。

実は79年に『あざやかな退任』という作品を書いたのですが、その冒頭シーンに八谷さんの臨終の場面を使わせてもらいました。それを読んでくれた智子夫人が「主人が亡くなったときとそっくりです」といってくれたのです。それが、実名小説執筆の突破口になりました。

【池田】私は大阪出身で、本籍が旧日本触媒化学工業の本社の近く、中央区高麗橋3丁目です。実家は繊維関係の商売をしていたのですが、私が入社する際に父親が調べてくれ「あっ、八谷さんの会社らしいで」と。関西では違う業界の人間でも知っているほど有名な人物だったわけですね。

【高杉】池田さんは東大工学部出身ですが、八谷さんは大阪高等工業学校を出て、いったんは就職し、苦学しながら大阪帝国大学工学部を1932年に卒業しています。やがて、硫酸製造の会社を起こし、事業を続けながら博士号を取得した。池田さんは同じ理系出身の技術屋経営者として八谷さんに惹かれたのですか?

【池田】いえいえ、私は75年に卒業しているのですが、実家を継ぐにしても、もう少し勉強だと思い、1年間ほど研究生として大学に残りました。ところが、73年の第1次オイルショックで、それまで好況だった化学会社が軒並み苦戦を強いられ、大手はほとんどが新卒採用をしません。そんなとき、担当の教授から3年上の先輩がお世話になっている当社を勧められたのです。吹田にあった工場まで見にいき、入社を決めました。それから40年、ずっと世話になっているわけですが、それはやはり、自由に発言でき、チャレンジ精神に富んだ雰囲気が自分に合ったからでしょう(笑)。もちろん、それは八谷さんが培った社風にほかなりません。

【高杉】だからこそ、八谷さんのもとには優秀な人材が集まった。戦後間もなく、まだ無名の貧乏会社にもかかわらず、旧南満州鉄道の中央試験所にいた技術者を4人採用しています。彼らが中心になって、会社の技術力を高めていきました。当時、満鉄といえば押しも押されもせぬ会社です。そこから、後の日本触媒の屋台骨を支えるエリートを引き抜いた。よくぞ日本触媒化学工業に来たという感じです。