小説へのエネルギーは笑いに通用する
それにしても驚くのは、著者の読書の量と質である。しかもジャンルは、太宰を筆頭に、芥川龍之介、夏目漱石、三島由紀夫といった近代文学に集中していた。「当時僕が本に求めていたのは、自身の葛藤や、内面のどうしようもない感情をどう消化していくかということでした。近代文学は、こんなことを思っているのは俺だけだという気持ちを次々と砕いていってくれました」とその理由を述べている。
やがて、著者の文学への思いは創作へと向かっていく。まずは、吉本興業の広報誌にエッセイを連載する。そしてそれが、彼にとってかっこうの文章修業になる。人に読んでもらえるように「毎回書き上げると八百字はある。多い時は千六百字もある。それを四百字にするのですが、ごっそりカットするのではなく、内容はそのままで言葉を置き換えて圧縮する作業を続けました」といった具合だ。さらに、芝居の脚本や自由律俳句も手がけるようになり、それらが『東京百景』などの本になった。
こうした積み重ねが、芸人・又吉直樹の芸域を広げないはずがない。「小説に捧げているエネルギーは、笑いとしても通用すると思っていました」という彼は、コントの大会でも好成績を残す。そして昨年、あの『火花』で芥川賞を受賞する。著者自身をモデルにした若手漫才師と先輩芸人の物語だった。おそらく、この金字塔はこれまで続けてきた読書、そして思索と無関係ではない。この本のテーマが「なぜ本を読むのか?」だとしたら、この又吉直樹の足跡こそが、それに対する雄弁な回答にほかならないといっていいのではないだろうか。