「時給は当時の最低賃金の430円。レストランで働いても時給1000円はあった時代ですが、それでも音楽に携われていることのほうが楽しくて。いつもお店にいて、ああでもない、こうでもないとお客様を増やす方法ばかり考えていました。EXILEのリーダーのHIROと出会ったのも、彼がこの店に来ていたから。その後店長から店の仕事のほとんどを任されるようになって、店舗経営の面白さも知っていきました」

就職活動ではレコード販売店などを受けたものの、望む内定は得られなかった。そこで上大岡駅の近くに20坪の店舗を借りて独立。自らの知識を活かし、2年後には海外のダンスミュージックの輸入盤卸業を始める。「あの頃は毎日が不安でした」と彼は言う。

「でも、先のことを考えている暇なんてない。とにかく考え続けてきたのは、わかりやすいもの、みんなが聴きたいものを作ること。それでイタリアやオランダのアーティストの中に自社スタジオで作ったオリジナルの曲を交ぜ、コンピレーションとして売っていったわけです。当時、マハラジャやジュリアナにいた人たちは、自分たちの聴いている曲が町田の小さいスタジオで作られていることを誰も知らなかったでしょうね」

音源を新たに作る度に、各地のクラブに足を運び、DJブースで「次はこれをかけてくれ」と“営業”を続ける日々。後に日本の音楽業界の一角に食い込んでいくエイベックス創業期の風景である。

「日本の大学の場合、その4年間は一つのことに熱中できる唯一の時間みたいなところがありますよね。どんなジャンルであっても、誰にも負けない知識やノウハウを身に付けるくらい打ち込めば、その後の10年間くらいは最前線の変化についていける。自分が真剣になって一日中費やしたような趣味が、実際の将来の仕事に役に立つようなものだと、それこそ幸せでしょう」