「硬式庭球部卒」から自動車開発のプロになる
福島県郡山市に拠点工場の一つがある自動車部品メーカー・エイチワンの金田敦社長は、こうした大塚学長の言葉に深く頷く一人だ。主にホンダ車の骨格部品や金型を製造する同社は、海外にも多くの工場を展開する従業員7000人のメーカー。金田社長は経済学部の出身である。
「僕は郡山の出身。同じ街に工学部や付属高校の日大東北があったので、日大は友達も多い身近な大学でした」
学生時代、金田社長は経済学部の硬式庭球部に所属していた。学内には各学部に同好会があり、仲間は多い。「“硬式庭球部卒”と言いたくなるくらい、テニスばかりをしていた学生時代だった」と彼は振り返る。
「ただ、日大が掲げる『自主創造』の精神だけは、その中で培われたように感じているんです」
金田社長は入学の年、父親を病気で亡くしている。エイチワンの前身となる本郷製作所に就職したのは、いずれ母の暮らす地元に戻りたいと考え、郡山にも拠点のある企業を選んだからだった。
「入社してからは無我夢中でした。というのも、私は経済学部とは全く関係のない畑を歩むことになったからです」
埼玉県の戸田にある工場に配属された彼は、主要取引先のホンダの研究所に通いながら、開発の部署で下積み時代を過ごすことになった。20代のうちには郡山市の事業所にも異動となり、溶接設備や工作機械ロボットの制御の仕事も担当することに。「大学での勉強より、会社に入ってからの勉強のほうがはるかに大変だった」と笑う。
34歳のときにキャリアの転機が訪れる。ホンダの生産拡大に伴ってアメリカのオハイオ州に生産拠点をつくることになり、現地での工場立ち上げを任された。彼は学生時代に出会った妻と2人の子供と渡米した。
「派遣されたときは、英語も苦手でしたから、子供向け絵本から勉強を始めました。州法や税務も勉強しながら工場をつくり、それが終わるとアラバマでの2つ目の拠点工場の立ち上げも担当しました」
帰国したのは6年後の2002年末。以後、経営企画や生産、開発など様々な部署の責任者を経て、49歳で社長となった。
「僕のキャリアはだいたい3年に1度、未経験の部署に行くことの繰り返し。モットーとしてきたのは、『当たって砕けろ、何でも勉強、いつも前向き』の精神です。自分が日大の卒業生なんだなと思うのは、むしろ最近になってのことですね。当時の庭球部の仲間と集まったりすると、校歌がスラスラと出てくるんです。そんなとき、あの『自主創造』という理念が確かに自分の原点になっているように感じるんです」