日本の学校教育が抱える矛盾や問題点をどのように解決したらいいのか。現役の小学校教員である松尾英明さんは「今こそ、教員と児童、教員と保護者、教室内でまかり通る、学校の常識や慣習を見直すべき時期にきている」という――。

※本稿は、松尾英明『不親切教師はかく語りき』(さくら社)の一部を再編集したものです。

傾いてきた日が差し込む、誰もいない教室
写真=iStock.com/Yoshitaka Naoi
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現役教員が語る「ここがおかしい日本の小学校」

学校教育とは本来、その国の社会の未来を形作る柱であり、希望そのものです。

しかし今、日本の教育現場には、見過ごされがちな課題が山積しています。その一つに、一見すると良かれと思われる慣習や価値観が、実は子どもたちの可能性を制限していることがあります。それはまた、教師自身の成長をも妨げる要因となっているのです。

教育現場に立つ教師は、日々迷いや葛藤の中で奮闘しています。子どもたちの多様な個性や価値観、保護者との関係性、そして学校全体の調和を図りながらも一人ひとりの個性を尊重する。そのバランスを保つことは簡単なことではありません。

しかし、教育の目的とは、こうした日々の困難を乗り越えてでも向かうに値するものです。教師の仕事が目の前の忙しさに埋もれがちな今だからこそ、私たちはあらためて問い直す必要があります。

そもそも、私たちは何のために教室に立っているのでしょうか。教育は、誰かに言われた通り行動することではなく、自ら考え、選び、行動する力を育てる営みです。そのために教師は、子どもたちに知識を授けるだけではなく、自らの人生を切り拓いていく力の根っことなる部分を育てなければならない――そう考えるとき、大切な一つの軸が浮かび上がります。

それが、「主体性の向上」です。このような考えのもとに生まれたのが、前著『不親切教師のススメ』(さくら社)です。余計な親切をしないことこそが、子どもたちが主体的に行動し、自らの力を発揮できる環境をつくる真の親切であり、本当の愛情である――そう考えて記した一冊でした。

するとありがたいことに、テレビやインターネットメディアも含めた、様々な場から予想を超える多くの反響をいただきました。さらに教育関係者だけでなく、保護者や子どもたち、そして異業種の方々からも数多くのご意見やご感想をいただきました。

その中で浮かび上がってきたのが、「その理屈で、教育は成立するのか?」という問いでした。そうした問いに応えつつ対話を重ねる中で、「不親切こそ親切」という理念をより具体的な実践として提示する必要があると感じるに至りました。

かつての教育には、「こうあるべきだ」という絶対的な価値観が確かに存在していました。教師は聖職者と呼ばれ、その言葉やふるまいは正しさの象徴とされていたのです。

しかし現代の教室には、もはやそのような一枚岩の正しさは通用しません。100年以上もの昔、哲学者ニーチェが「神は死んだ」と語ったのと同様、現代の教育の世界でも、かつて信じられていた正解や権威は、すっかりその力を失いつつあります。今や、かろうじて形だけが残り、その中身や意味が鋭く問われている時代だと言えるでしょう。