寺の過去帳に残る「名前」

第25回「灰の雨降る日本橋」(6月29日放送)では、ついに蔦重は「てい」と祝言を上げるようだ。いよいよ日本橋に進出した蔦重は今後、かつて一緒に店を切り盛りすることを夢見た瀬川ではなく、この「てい」と二人三脚で進んでいくことになるのだろう。

実をいえば、蔦重の女性関係は、吉原といういわば「女の園」の生まれであるにしては、ほとんど伝えられていない。だが、妻がいたことはまちがいないようだ。

蔦重の菩提寺だった正法寺(東京都台東区東浅草)の過去帳には、文政8年(1825)10月11日に死去した女性の「錬心院妙貞日義信女」という戒名が見え、これが蔦重の妻だとされている。蔦重が没したのは寛政9年(1797)5月6日だから、夫の死後、28年以上生き永らえたことになる。

正法寺
正法寺(写真=Abasaa/PD-self/Wikimedia Commons)

この妻の名は、正確には分かっていないが、正法寺で配布している説明書き「蔦屋重三郎と正法寺」には、「錬心院妙貞日義信女(蔦屋重三郎妻 おてい)」と記載されている。たしかに、この戒名の5文字目に「貞」の字が見え、これが実名だったと考えられるということだろう。ドラマで蔦重の妻を「てい」としているのは、あながちフィクションとは言い切れない。

死の間際に妻に語った言葉

現在、正法寺に立つのは蔦重の顕彰碑で、ホームページには「火災・震災・空襲と幾度の殉難により元の墓石を残すことが叶わなかったことは正法寺にとって痛恨の極みでありました」と書かれている。その顕彰碑には、石川雅望と大田南畝による蔦重の墓碑銘が刻まれており、その文中には次のような文言がある。

「寛政丁巳の年の夏、五月六日にこう言った。『私は今日の昼時には死ぬよ』身の回りの始末をし妻と別れの言葉を交わし」(先述の「蔦屋重三郎と正法寺」に掲載の現代語訳)

だから、蔦重が妻帯し、妻が死の床でも蔦重を見守ったことは間違いなさそうだ。一方、妻とのあいだに子供がいたかどうか、たしかなことはわからない。妻子の情報に乏しいのは、江戸時代の商人には、武士と違って系図を残す習慣がなかったことも関係している。

ただ、蔦重の死後は勇助という番頭が養子になって、二代目蔦屋重三郎を名乗っている。江戸の商人としては、よくある店の継ぎ方だが、いずれにせよ、店を継いだのは蔦重の実の息子ではなかった。男子には恵まれなかったか、生まれても早世したか、家業とは別の道に進んだか、だろう。