「だから私はフジテレビは受けませんでした」

また、他のキー局に勤める女性アナウンサーは、筆者に対し「被害にあった彼女は本当に気の毒」とした上で、それとは別の問題として、こう自分の話を語ってくれた。

「そういった飲み会があるということは、試験を受ける前の段階で少し調べればわかることのはず。だから私はフジテレビは最初から受けませんでした」

キー局のアナウンサー試験というのは、かなりの高倍率で、その意味ではすべての就職活動の中で最難関と言ってもいい。しかも、3年生の夏には内定しているケースも多い。つまりは、就活生にとって最速かつ最も難しい試験である。そのため、いわゆる“スペック”の高いエリートが、そう深く考えずに受験して内定をもらい、そのまま入社してしまうケースがままある。

もちろん、ずっとアナウンサー志望で、深く考えて入社するケースもあるが、フジテレビはキー局の中でも、突出して華やかで長く王者として君臨してきたがゆえに、前者のパターンの多い局である。件の元フジテレビの女性アナウンサーの場合は、その能力の高さゆえに、簡単に受かってしまったのかもしれない。だとすれば、そのようなことがあるとはつゆ知らず、余計にショッキングな出来事となったのではないだろうか。

フジテレビ外観
撮影=プレジデントオンライン編集部

「そういう飲み会はあるもの」が個人レベルで内面化されている

改めて、2人の発言を振り返ると、彼女たちの中に「そういう飲み会はあるもの」と、当たり前のものとして深く認識されていることがわかる。「テレビ局で働く以上、そういう場に参加せざるを得ないのは織り込み済み」という意識が内面化しているのである。組織の論理が個人の意識にまで浸透していると言ってもいい。その意識を基本にすると、長野のように、そこで起きたことは自己責任とも聞こえる危険な論に発展しかねない。

キー局の女子アナというのは、一介の会社員でありながら芸能界の論理も入り混じってくる特殊な場所だ。彼女たちが、そう感じてしまうような構造になっていることには同情の余地がある。しかし、本当に疑うべきは「そういう飲み会はあるもの」という認識そのものなのではないだろうか?

上司に言われたら、不本意だったとしても、飲み会に参加しなければいけないのか。会社員であれば、そこで傷ついたりすることも“業務の延長線上”だとして受け入れるべきなのか。そもそも、逆らえない場で行われるコミュニケーションは必要なのか。これは、テレビ局だけの問題ではない。権力勾配のあるすべての場所で起こりうることである。