祖母も母も料理研究家の環境で育ち、自身も同じ道を歩んでいる料理研究家のほりえさわこさん。料理の道へと背中を押してくれた母への思いと堀江家の料理の想い出を語る――。
左=堀江ひろ子さん、右=ほりえさわこさん
撮影=小林久井(近藤スタジオ)
左=堀江ひろ子さん、右=ほりえさわこさん

言いたいことが素直に言える母でありパートナー

祖母(堀江泰子)も母(堀江ひろ子)も料理研究家という家で生まれ、私も三代目の料理研究家に。母のひろ子とは、一緒に仕事をすることも多く、母であり、パートナーでありボスという存在です。そんな私たちを人は「友だち母娘」と言いますが、私は母を友だち的な存在と思ったことはありません。とはいえ、確かに仲がいい母娘です。母に言えないことはひとつもないですし、お互いに言いたいことが素直に言い合える関係です。

母との関係は、昔から今のような感じだったわけではありません。中学までの私は、今からは想像ができないくらい引っ込み思案で、石橋を叩いても渡らないタイプ。特に中学時代は、母に対してかなり反抗的でした。

小さい頃から母も祖母も仕事で忙しかったので、泰子の母、私にとっては曽祖母にあたる静江おばあちゃんが私の面倒を見てくれていました。わが家では、祖母の泰子を「大ママ」、ひいおばあちゃんを「静江おばあちゃん」と呼んでいたんです。

中央の写真に映っているのが、左から、母・堀江ひろ子さん、祖母・泰子さん、曾祖母・静江さん。
撮影=小林久井(近藤スタジオ)
中央の写真に映っているのが、左から、母・堀江ひろ子さん、祖母・泰子さん、曽祖母・静江さん。

私は小さい頃の記憶がなぜかほとんどありません。母は仕事でいつも忙しくしていて、学校の参観日も来ないし、PTAをやったこともない。学校のプリントは母ではなく、静江おばあちゃんに渡すといった感じでした。

私が子どもの頃は家族全員で夕方6時半に食卓を囲むのが絶対的なルール。静江おばあちゃんが家族の夕ご飯当番のときは、私も夕飯の支度を手伝うようになり、必然的に門限は5時に。静江おばあちゃんが健在のときは、いとこたちも含めて家族10人、年齢差80歳の4世代分の夕食をつくっていました。しかも、食卓には毎日のように、家族以外の親戚や知り合いの誰かが当たり前のように座っている。そんな賑やかな食卓を毎日囲んできたことは、私の人生の宝物ですね。

中学生になると泰子とひろ子の料理教室に通うようになります。大学生になってからは、母たちのアシスタントとして料理教室や撮影の手伝いをしていました。