裕士さんの母からは「売り上げの補填に」と、毎月20万円をもらっていた。18歳の時に父が亡くなり、看護士をしている母は一人で彼を支えてきた。そのことを知る裕士さんの友人からは「お前は甘い」と言われた。30歳を過ぎて親からお金をもらっていることに不甲斐なさを感じていたものの、心のどこかで「困った時は母さんが助けてくれる」と思っていた。

だが、その甘えが母を苦しめていたことに裕士さんはやっと気が付く。

開店から1年が経とうとした時、母が突然泣き出して「もう無理やで。お金は出せんよ」と言ったのだ。

裕士さんは母の姿を見て、すぐに餃子店を畳むことを決めた。その後、3年かけて裕士さんは母親に工面してくれたお金を返したそうだ。

インタビューに応じる田中さん夫妻
筆者撮影
インタビューで当時を振り返る田中さん夫妻

「彼とは離婚しなさい」

2018年1月、咲子さんは女の子を出産。我が子の誕生で幸せに包まれる2人に、試練が待ち受けていた。

咲子さんは両親が移住した広島県福山市に里帰りしていた。ある日、父と母から「彼とは離婚しなさい」と言われてしまう。

大阪でこのことを聞いた裕士さんは、「もう、妻と娘は戻ってこない」と思い、愕然とした。また、店を間借りしていた後輩との関係がこじれており、心に大きなダメージを負っていた。借金が膨らみ、家族も離れていく――。

「もう死んだほうがラクや……」

気が付くと、裕士さんはひとりでスーパーマーケットにいた。すると、母から電話がかかってきた。その電話の最中、涙が止まらない。息ができず、過呼吸になった。人目を憚らず、その場に泣き崩れた。

三原への移住と新たな挑戦

その後、咲子さんは両親の反対を振り切り、子どもと2人で大阪に戻った。

ある日、咲子さんの母から連絡がきて、「三原市の空き家バンクに、いい物件がたくさんあるよ」と教えてくれた。離婚を促していた母だったが、2人を応援する気持ちがあったのかもしれない。

さっそく調べてみると、広島県三原市には古民家の物件が格安で売り出されていた。さらに、同市は女性の創業支援が手厚く、若い世代の移住に対する家賃補助があった。

道半ばでとん挫した、店を持つ夢。何もできなかった歯がゆさ……。咲子さんはくすぶっていた思いが再燃し、裕士さんに「三原で古民家カフェをやりたい」と相談。すると、裕士さんも彼女の思いに賛同した。

この選択が、田中夫妻の逆転劇を生むことになる――。

空き家になって7年の古民家は「まるでジャングル」

店を閉めた翌年、田中家は三原市への移住の準備を始めた。咲子さんは同市の商工会議所で行われる創業支援講座を受け、幼子を抱っこ紐で揺らしながら、自宅兼カフェになるような物件を探した。すると、1軒目で理想的な古民家に出会う。

それは、海に面した築100年の日本家屋で、もとは料亭だったようだ。