“双方向・探究型”は従来のノウハウが通用しない

しかしやはり無理がある。一教師の「学級王国」ではなく、権限と責任を分散させることによって、もう少し柔軟に対応したり、保護者の要望を緩やかに受け入れたりといったことができるのではないか。小学校でもようやく、クラスや学年をまたいで担任がローテーションで交代する仕組みが、「学年担任制」「チーム担任制」という名のもとで始まっています。その方が、子どもにもさまざまな教師との接点が生まれて、メリットは大きいと思います。

木村草太さん
撮影=後藤利江
木村草太さん

【木村】教師が多くを抱えすぎている、という意味で最近気になっているのが「双方向・探究型授業」です。自分で調べて、考えさせて、といった授業ですね。理念としては推奨されていますが、実は様々な危険性があると感じています。

これまで、自分でテーマを見つけて、調べて、発表する、という学習は、かなり段階を踏んだ後の高等教育、つまりは大学の卒論や修士課程でやっていたことなんですね。それが高校、中学校、さらには小学校にまで下りてきている。

そういった授業には、従来型の教科を教えるのとは全く質の異なる方法論が必要になる。これはレベルが高い、低いということではなくて、ノウハウが異なる教育技術だという意味です。限られた範囲の知識を効率的に教えるとか、正確に九九の計算を身に着けさせることと、問題設定をさせて「この問題だったらこういう論文があるよ」と指導するのとは、本質的に別の作業なんです。

例えば3人、修士課程の学生がいたら、上げてくるテーマは全部違う。読んでいる論文も違うし、専門言語も全然違う。私は憲法の専門家なので、その分野の範囲では、何かしら指導できます。しかし、初等・中等教育での双方向・探究型授業の場合「テーマは何でもいいよ」となりがちです。そうすると、教える側に必要な知識が無限に増えていくんですね。

現場で“無茶”が起きているのではないか

【内田】「何でもあり」ですからね。

【木村】経済も政治も、自然科学も知っている必要がある。でも、そんなスーパーマンみたいな教師はいない。教師側にも得手不得手があって、何を調べればいいか、子どもが調べたことが本当に正しいか、判断できないことが多々あるでしょう。

そして、こちらの方が深刻なのですが、双方向・探究型授業って、優劣をつけて評価することが非常に難しいんです。大学のことを考えてみても、学生の評価が恣意しい的になる危険性が常にある。残念ながら、それがパワハラに転じてしまうこともあります。

大学での論文指導では、当然、ダメなものはダメと指摘しなければいけません。ただ、それが教授の好みで論文をけなしているという形にならないように、多くの大学では、教員に学生・院生指導のためのハラスメント研修を受けてもらうようにしています。研究論文に点数や評価をつけるときは、どの大学教員も、恣意的だと言われないように、慎重に基準を作るはずでしょうし、修士号や博士号の認定の際には多くの教員が判断に関与します。大学には、「答えのない問題」に取り組む学生や院生を指導する場合のノウハウが蓄積されています。

初等・中等教育で研修やノウハウ抜きに同じことを実践すれば、パワハラが起きうるでしょう。一人ひとりが納得できる判定基準を設定しなければ、子どもたちは傷つきます。その発想が抜けたまま、とにかく探究型の授業だけやらせようとして、現場で無茶が起きているんじゃないかという懸念があります。