A医師「私の生活や仕事、そして家族を奪われた」
差し戻し控訴審の判決後、A医師は記者会見に臨み「私の生活や仕事そして家族を奪われたこと、警察と検察に対して強く憤りを感じます」と怒りを露わにした。(※1)
この9年間に、A医師は身体を拘留され、職場や名誉を失っただけでなく、息子も失っている。控訴審で有罪判決を受けた数カ月後、中学生だった息子が総武線に飛び込んで自殺した(※2)ことを一部メディアが報じている。多感な年代に「実父が性犯罪者」という社会的プレッシャーが耐えられなかったのだろうか。今後、失った金や名誉を償ってもらうことはできても、息子は戻ってこない。
※1「ふたたび『無罪』になった乳腺外科医、捜査機関やマスコミに憤り『生活や仕事そして家族を奪われた』」(弁護士ドットコムニュース、2025年3月12日)
※2「手術後『わいせつ行為』事件で逆転有罪の外科医の子息が自死」(『選択』2020年10月号)
全身麻酔によるせん妄とは
一般的に、手術は患者の症状や部位によって、全身麻酔が選択されるケースは少なくなく、その際、患者がせん妄状態に陥ることもある。そのため、外科医や麻酔科医はその備えを常に怠らない。
手術が終わった直後、ベッドの上に立ち上がったり、点滴を抜いたり、中には医師や看護師に「ハゲ」「ブス」と暴言を吐いたり殴りかかる患者もいる。こういった一過性の現象が出ても、数時間後には正気に戻ることを経験的に知っているので、医療関係者は冷静に対処する。
性的せん妄も珍しい話ではない。普段は真面目なサラリーマンが、手術が終わった数時間後に寝ぼけ眼で「陰茎をブンブン振り回して看護師に見せる」といった事態もたまに発生する。平常な人がそれをやったら、一発アウトで「わいせつ行為」「性犯罪」となるだろうが、病院関係者は事を荒立てず、静観し、麻酔からの覚醒を待つのみである。
本件のB子も手術直後に「ぶっ殺すぞ」と発言していたとの証言(※3)があるが、せん妄を疑われても「殺意を抱いていた」とは疑われていない。
※3「乳腺外科医のわいせつ事件はあったのか?~検察・弁護側の主張を整理する」(Yahoo!ニュース、2019年1月19日)
疑わしきは被告人の利益…だったはずなのに
本事件でも発生直後から多くの外科医や麻酔科医が、「全身麻酔後のせん妄」の可能性を指摘しているのにもかかわらず、検察や警察には納得してもらえず、上告に至ったことは残念である。
さらに控訴審では、「A医師は犯行を否認して、反省、謝罪していない」事を理由に実刑判決を言い渡された。もし「乳房を舐める行為」がB子のせん妄だったら、A医師はそれを強く否認するわけで、反省・謝罪に至らないのは自然だが、判決文にはそうしたことへ思いを巡らした形跡はない。
検察側が立てた証人もいささかお粗末だった。「私はせん妄の専門家ではない」と自ら正直に語る精神科医が出廷し、その証言が採用されている。「疑わしきは被告人の利益に」が、刑事裁判の基本のはずだが、判決は偏っていたと言われてもいたしかたない。