明治期にはじまる皇室喪儀令制定の経緯
皇室喪儀令がどのような経緯を経て成立したかについては、塩川彩香の論文「近代大喪儀儀礼の成立過程 『皇室喪儀令』の附式を中心に」(『神道宗教』273号、2024年1月)で説明されている。
皇室喪儀令を制定する動きは明治のはじめからあり、さまざまな調査も行われた。明治天皇の実母ではないものの、嫡母となった英照皇太后が明治30(1897)年に崩御し、翌年まで約一年をかけて大喪儀が営まれた。このときは、崩御が急なことで、政府が望むような古儀を復活させるまでには至らなかったものの、それ以降、研究が積み重ねられ、皇室喪儀令の草案が作られることになる。
しかし、明治天皇や昭憲皇太后の大喪儀もあり、皇室喪儀令の制定は大正時代に持ち越され、すでに述べたように、その公布は大正15年のことだった。
皇室喪儀令に込められた「孝行の模範」
大喪儀の対象となるのは、天皇・皇后・上皇・上皇后・太皇太后・皇太后で、喪主は天皇と定められた。そうした体制がとられ、追悼のための儀式がくり返されることになったのには、一つ重要な理由があった。
皇室喪儀令が制定された後、宮内省が発表した「大喪に関する法規」という解説では、天皇が喪主となり、「一切の儀式を統理あそばさるゝ制度を定められたことは、実に孝行の模範を一般に示さるゝ」という趣旨だと拝察されるというのである。いわば国民に対して亡くなった親に対する孝行の模範を示す絶好の機会になるというわけだ。
そこに天皇の意思がどれほど反映されていたかはわからない。そもそも皇室喪儀令が定められた時代の大正天皇は病にかかり、大正10(1921)年から、のちの昭和天皇が摂政をつとめていた。
ただ、ここで「孝行の模範」と言われていることは重要である。仏教式の葬儀では、「追善」という考え方がとられ、故人が十分に積むことができなかった善を、子孫がかわって積むことが求められ、そのために、初七日からはじまって、四十九日、百日、一周忌、三回忌という形で供養がくり返されることとなった。
天皇や皇族を対象とした葬儀も、結局は、こうした仏教式の考え方を土台に、それを神道式で行うものであった。だからこそ、多くの儀礼が営まれ、それが一年も続くことになったのである。