最も有力とされる「四国説」

明治以降も怨恨説は根強かったが、大正から昭和初年には、これから述べる「四国説」も提唱されるようになった。そして、高柳光壽氏が1958年に上梓した『明智光秀』(人物叢書・吉川弘文館)で、光秀が信長にいだいたとされる怨恨が一つひとつ検証のうえで否定されてから、怨恨説はドラマなどを除いては、ほとんど相手にされていない。

その後は、黒幕説も数多く提唱された。朝廷、足利義昭、本願寺教如、イエズス会などバラエティに富んだ名が、謀反の「黒幕」として挙げられたが、いずれも否定されている。そして、現在では「四国説」がもっとも有力とされている。簡単にいえば、信長が梯子を外すように四国政策を変更したため、立場がなくなった光秀が信長への謀反を起こした、という説である。

長宗我部元親は天正3年(1575)、名門の土佐一条氏を四万十川の戦いで破り、土佐国を完全に統一した。その後、四国全土を攻略しようとしていた元親に手を差し伸べたのが信長だった。そのころ信長は大坂本願寺(大阪市中央区)と戦っており、本願寺に味方をする阿波国(徳島県)の三好氏に手を焼いていた。