「失ってはならない」200年受け継がれた思い
さて、その盆野氏が、7月、鳥羽市に現れた理由は、名古屋大に集まる若手研究者を鳥羽城跡に案内して防災を学んでもらうツアーのための下見だったという。そこで、郷土史会が氏に、リサイクルパークで発見された史料の検分を頼んだのは、ごく自然な成り行きだった。
絵図をみた氏は、これは探していた未発見絵図の一つ、寛政12(1800)年に鳥羽藩が幕府に提出した「修復願絵図」の控え図に違いないと、一目で直感したという。「史料に呼ばれたような不思議な感覚に襲われた」そうだ。
前述の新聞記事によると、「修復願絵図は、災害の規模を視覚的に把握できる史料だといい、今回の発見で6種10枚に。鳥羽藩の最後の藩主、稲垣家が治めた享保10(1725)年から鳥羽城廃城(明治初期)までに作られた修復願絵図5種は、今回の寛政12年の絵図ですべて揃った」とのこと。素晴らしい成果である。
それはそうと、これを保管していたのはどういう家門だったのか? 持ち込んだのは名古屋市内の50代の男性としか書いていないところを見ると、おそらく今のところ不明なのだろう。鳥羽の住人ではないから、この朗報も伝わっていないのかもしれない。
ただ、郷土史会の会長の推定によれば、その人の祖先は、江戸時代に鳥羽藩で書記係を担い、明治時代になってからは神職を務めた家だっただろうとのこと。どこに置いてあったのかはわからないが、湿気の多い日本で、しかも一般人の家で、古文書が200年以上も保管されていたというのは凄い。失ってはならないと思った人の情念が伝わってくるような話だ。
長男が家を継がなくなった日本で起きていること
しかし、それを最後に受け継いだ人にとっては、これは古文書ではなくゴミだった。あるいは、価値があるとは知りながら、どうしようもなかったのかもしれない。最近では、図書館や資料館なども、一般家庭からの持ち込みは、よほど価値があるとわかっているものでない限り引き取ってはくれない。
親の家は、つい1、2世代前まではたいてい長男が引き継いだ。これは私の勝手な想像だが、その際、伝統や風習とともに、何に価値があるかという認識も自然と受け継がれていたのではないだろうか。
ところが今では、家は親が亡くなれば処分するものだ。私も数年前、実家の整理をし、大量の写真などを後ろ髪を引かれながらも捨てた。写真の中には、場所をちゃんと特定でき、しかも街並みが克明に写っているものもあり、人々の服装なども含めて、ひょっとすると時代考証に役立つものもあるかもしれないと思いながら、しかし、ほとんどをゴミにして出した。さすがに古文書らしきものは見当たらなかったが、もし、出てきても、忙しさにかまけて捨ててしまったかもしれない。
たぶん今日、何千何万という人たちが、空っぽになった家で、埃を被った写真や書類を前に、同じような葛藤をしているに違いない。