教育現場でさえ理解が進んでいない現実

2024年の今、「発達性読み書き障害」「発達性ディスレクシア」は、この頃よりもだいぶ広く認知されるようになっています。正確な判定ができ、トレーニングができる専門家も増えています。

発達性読み書き障害を知らない一般の人であっても、学習障害、LDという言葉は知っている、そういう「苦手さ」があることは知っているという方も増えています。

それでもまだまだこの困り感を知らない人が、大多数なのではないかと思います。

僕は学校の先生、通級やことばの教室などの職員、支援員の方へ向けて講演会をすることもあります。先生方は「発達障害」はもちろん知っています。「学習障害」も知っている。

けれどその理解はあいまいで、正しく病態を説明するのは難しいという方が大勢いることを実感しています。「発達性読み書き障害」となるとなおさらです。先生方の努力も重々承知していますが、教育現場で働いている人でもまだ詳しくは知らない、これが2024年の現実です。

けれど、十分な支援はできなくとも、まず「知っている」ことに大きな意義があると思っています。発達性読み書き障害の子どもたちの中には、学校ではとにかくがんばりすぎていて、放課後になると疲れ果ててぐったりとしてしまうという子がいます。

家族や教育者が特性を理解していれば、「知ってるよ」「無理しなくていいよ」と本心から思うことができるでしょう。その心の在り方はお子さんの救いになります。特性を周囲に理解してもらえず、心身に別の問題が出てくる「二次障害」を防ぐためにも、今の目標は、まず知ってもらうことです。

正しい理解が広まることで、支援は次第についてくるものと信じています。

ディスレクシアのイメージ
画像=iStock.com/Anna Bergbauer
※画像はイメージです

「僕は努力不足じゃなかった!」

発達性読み書き障害、発達性ディスレクシアだと診断されたとき、僕は救われた気分になりました。これまでは、腕の骨が折れているのに「ボールを投げろ」と言われている状態だったと気付いたからです。骨折していたら投げられなくて当たり前。がんばればどうにかなるというものではありません。

この本を読んでいる方の中には、身近な人が発達性読み書き障害だと判定され落ち込んでいる方もいるでしょう。ですが、当時の僕は圧倒的な解放感を味わっていました。

僕は怠けていたわけじゃない。努力不足じゃなかったんだ。

そう認められたように感じ、抱えていたストレスから解き放たれ、「みんなのようにできないといけない」という思い込みを捨てることができました。