「自分の子供に会いたい」のほうが勝った

子供を育てている女友達何人かに「どうして産もうと思ったの?」と聞いた結果、共通していたのは「ツキちゃんが挙げているような『産まない理由』も全然分かるけど、そういうのと自分が『子供が欲しい』と思う気持ちは、つなげて考えてない」というものだった。

これが私にとっては衝撃的だった。

つなげて考えてない。

つなげて考えないということが可能なのか。

聞けば、「さまざまなネガティブ要素よりも、自分の子供に会いたい、母になりたい気持ちが勝った」結果であり、要は「なんとかなるほうに賭けた」ということだ。

さまざまな産まない理由を並べてみて、「やっぱり産むのはやめよう」となる私と、「そうは言っても子供を産みたい」となる人の違いは、一体どこにあるのだろう。

リスクよりも自分の気持ちを優先して動き、新しい人間をこの世界に生み出すという行為は、なんと輝かしいエゴだろう。「自分の子供に会いたい」という気持ちの、引力の強さに圧倒されて、眩しい。

深く考えずに産むことは「無責任」なのか?

彼女たちは、世界と自分と子供を信じているから、賭けに出られるのだろうか。

それとも、世界も自分も子供も信じられないまま、問題が解決しないまま、グレーゾーンのままで、それでも飛び込む勇気があるのか。

はたまた、そんな悩みをそもそも抱えないくらい、楽観的に生きられるのか。

子供を産んでも引き続き私と仲良くしてくれる女友達は、みんな「ツキちゃんは子供を産むことについて、すごくよく考えていて偉い」と言ってくれる。「私はそんなに深く考えずに産んじゃったから、ある種、無責任だと思う」とも。

彼女たちが自分の選択を後悔しているようには見えないし、私に対して謙遜してくれている面も少なからずあると思う。

でも、本当は深く考えずに産んじゃっても普通に幸せに暮らせる世界のほうが正しいのに、深く考えずに産んじゃうことに「無責任」のレッテルが貼られるのは、一体どういうことだろう。