※本稿は、保立道久『平安王朝』(岩波新書)の一部を再編集したものです。
長すぎた皇太子時代、36歳で即位した三条天皇の悲劇
1011年(寛弘8)、一条天皇は32歳で死去する。かわって即位した三条天皇は36歳。三条の皇太子には、(編集部註:亡き皇后)定子を母とする年長の敦康親王をさしおいて、(中宮であった)彰子を母とする後一条が立つ(4歳)。このとき、彰子が父の道長に敦康を推薦したことは事実と思われ(『栄花物語』)、それを拒否した道長に対して、彼女は「怨み」を隠さなかったと伝えられる(『藤原行成日記』寛弘8年5月)。
しかし、一条と道長は、新天皇=三条との関係を顧慮せざるをえなかったはずである。三条は、一条が定子・彰子との後宮をいとなみ、道長が権力の座に駆けあがってくるあいだ、約25年間、年上の皇太子という立場に置かれていた。「老東宮」「さかさまの儲けの君〔儲君=皇太子〕」である。
『愚管抄』は、三条が「当今〔現天皇〕病い、待ちつけてをはしませば」と述べているが、三条は容貌が外祖父兼家にそっくりで、心ばえが「なつかしう、おいらか」なところがあり、「世の人いみじう恋ひもうす」という人物であったという(『大鏡』)。
最初の妻は源氏と密通、妊娠しているか道長が乳房を調べた
しかし、その生涯はこれまで不運続きであった。まず最初の妻の綏子(兼家の娘)は源頼定(安和の変の被害者である為平親王の子)との密通事件をひきおこしている。妊娠の噂を聞いた三条に頼まれた道長が、綏子の胸を引きあけて乳房を検分し、三条がやりすぎだと不快に思ったというのは有名な話である(『大鏡』)。
この事件のしばらく前、995年(長徳1)には、三条は、二番目の妻の娍子の父=済時、三番目の妻の原子の父=道隆の2人を亡くしている。この2人のうち、娍子は小一条を産んでいるが、原子は子どもを生まないまま、1002年(長保4)、23歳の若さで死去している。
とくにまがまがしいものを残したのは、立太子以来、三条の侍臣として春宮権亮・春宮権大夫を16年間にわたって勤めてきた藤原誠信(道長の叔父の為光の長男、花山女御=忯子の兄)の死に方であった。彼も道隆の呑み仲間であったようで、道隆の邸宅で酔態を演じたという話が残っているが(『大鏡』)、道長の評価が低く、1001年(長保3)、弟の斉信に中納言への道を先に越されて怒りのあまりに自死した。誠信の恨みは凄まじく、除目(人事発表)の朝から、道長らにはめられたと狂いたち、7日後に死ぬと「盟言」して絶食し、手の爪が甲に突き通るほど握りしめてうつぶしたまま、予言通りに死んだという(『大鏡』『藤原行成日記』)。