「地面師たち」の“下着を外さないセックスシーン”
表現の場が“コンプラ”によって萎縮している時代だ。特に性表現に関しては大きな変化が生まれ、テレビも広告もコミックスもゲームも、10年前とはかなり風景が変わっている。
これが、なにが責められ、問われているのかという作り手の分析や内省を経た「修正」や「方向転換」であるならばいい。だがいま表現世界に見られるのは、怒られないためにふわっとサラッと表面的なだけの、減点主義によるリスク絶対回避の姿勢でもある。
コロナ禍の前後、広告表現やマスコミの表現に、SNSを主たる手段とした一般ユーザの批判が殺到する現象が起き、炎上や訴訟リスク回避のための逆ギレに近い「全削除」なども横行した。その結果、もはや生々しい性に関しては触れない、見せない、語らない傾向が強くなり、副産物として不自然なセックスが描かれる。
最近、劇中の表現として非常に印象的だったのは、Netflixドラマシリーズ「地面師たち」の、役者が絶対に下着を外さない不思議なセックスシーンだった。Netflixの予算規模の大きさに製作陣の実力が存分に発揮され、ストーリー展開上、エロもグロも正当に必要な作品。無駄に扇情的なシーンが挟まれるような品質のドラマじゃない。
細部にこだわりと気配り目配りが利く作品なだけに、役者が下着をつけたままのセックスシーンを見たとき、「なるほど、制作はこの不自然さ、非現実みを現代の表現ルールとして受け入れたのだな」と感じたのだ。これは「地面師たち」に限った話ではなく、Netflixなどの配信系プラットフォームに載るハリウッドメイドの映画にも最近(一律で)よく見られることだ。
役者の権利を守り、幅広い視聴者の目にふれる作品であるために、不自然であっても表現を丸める。その功罪は今はまだわからない。だが、「本当の性」を潔癖にエンタメの表面からウォッシュしていけば、それは裏側に深く潜ってただ過激化し先鋭化し、やはり結局「本当の性」から離れていくだけのような気もしている。