目白にある学習院のキャンパスには、「乃木館」と呼ばれる建物が今も保存されています。乃木は1907(明治40)年に院長に就任、ただちに学習院の中・高等科(当時)を全寮制に切り替え、自身も生徒たちと一緒に寝食を共にしました。その乃木の居室部分を保存・移築した建物です。木造平屋建ての大変質素な造りに、乃木の心根が偲ばれます。

日露戦争で乃木の2人の息子は戦死しています。明治天皇は「そのかわりに多くの子供たちの教育を任せたい」と依頼、乃木は裕仁親王はじめ皇族・華族の教育にあたりました。その教育は人格形成を目的に、質実剛健を旨とした「乃木式」と呼ばれ、長く学習院の教育方針とされてきました。