「差別化」とは「かぶらない」こと
ブランド論を、「私が期待する私」(だけ)ではなく「他人が期待する私」を重視しようとするジャンルだと捉えるとき、その重視のあり方は近年における若者論の指摘と一部符合するように思います。
ブランド論の根底をなすのは、「差別化」というアイデアです。既に一部紹介したことでもありますが、各著作では以下のように幾度もこの言葉が出てきます。
「ブランド商品のように高い知名度と高い競争力をもち、ライバルとの差別化をはかる」(遠山、1-2p)
「自己ブランド化は、あなたの名前やアイデンティティ、イメージを超えるもの。メッセージ、自己提示、マーケティング戦術など、自分自身を差別化して売り込むためのあらゆる行動のこと」(カピュタ、19p)
「パーソナルブランディングを実践して他者との差別化を図ると、自分の専門性を世間にアピールでき、ライバルよりも優位なポジションを得て、ビジネスの成功や自己実現につなげていくことができます」(大元、102p)
差別化するということは、逆に言えば「重複しない」ということです。より砕いて言えば「かぶらない」ということです。この「かぶらない」ことをポジティブに言い換えるとどうなるでしょうか。
これまで紹介せずにきましたが、PRコンサルティング会社取締役(刊行当時)の杉村貴代さんは『自分ブランドをつくろう!――キャラ立ちの技術』という著作のタイトルにもあるように、「あなたを認めさせる何か、その他大勢のなかに埋もれないためのキャラ立ち――あなたの自分ブランド」(46p)という表現をされています。そう、自分ブランドを他人と差別化するということは、俗っぽく言えば、キャラが立っていること、キャラがかぶらないことなのです。杉村さんは「キャラ」という言葉を手がかりに、前回までに見たブランド論の3要素のうち、「ブランド確立」と「スタイル設定」を重点的に論じています。
話を社会学における若者論に転じてみましょう。社会学者の土井隆義さんは『キャラ化する/される子どもたち――排除型社会における新たな人間像』のなかで、以下のような指摘を行っています。
「若い人たちは、グループのなかで互いのキャラが似通ったものになって重なりあうことを、『キャラがかぶる』と称して慎重に避けようとします。それは、グループ内での自分の居場所を危険にさらすからです。しかし、グループ内に配分されたキャラからはみ出すことも、また同時に避けようとします。それもグループ内での自分の居場所を危険にさらすからです」(11p)
ある特定の場(ターゲット、マーケット)において、他人と競合するようなキャラ(ブランド)にならないこと、しかしただ競合しなければいいというのではなく、その場で受容されるキャラ設定の範囲内でなければならないということ。若者論の言及とブランド論は、文脈こそ大きく異なりますが、このように形式的に取り出してみると共通するものが多くあると私は考えます。
もう一点キャラ論から考えてみましょう。土井さんはこの議論において、「内キャラ」と「外キャラ」という区分を採用しています。具体的には、「それぞれの対人場面に適合した外キャラを意図的に演じ、複雑になった関係を乗り切っていこうとする」(23p)ことと、「自分の本心」(24p)あるいは「どんな視点からも相対化されることのない不変不動の準拠点」(33p)としての「内キャラ」を保持して精神的な安定を図ることという、若者の自己意識をめぐるサバイバルへの言及のためにこの区分は用いられています。
キャラ操作の内実に言及するこの区分からすると、ブランド論はどのように捉えられるでしょうか。TOPIC-2で見たように、2009年以前の議論においては、「自分らしさ」と、他人から見られる自分を一貫させようとする態度が観察できました。これは「内キャラ」と「外キャラ」を一貫させようとする態度だとも言えます。
一方、TOPIC-3で見たように、2010年以降の著作では、「自分らしさ」を至上とする態度が揺らぎ、他人(特にソーシャルメディア上における)から見られる自分のイメージ操作・評判管理が重視されるようになってきました。いわば「内キャラ」にもとづく「外キャラ」という志向が揺らぎ、「内キャラ」と「外キャラ」の分離や、「外キャラ」をまず定めてそこに「内キャラ」を従わせるようなパターンが見られるようになるのです。
また、先に言及した石原さんのような著作では、「外キャラ」を放棄して「内キャラ」を再確立することが求められていました。そして土井さんが見立てた現代の若者の態度は、放棄するところまでは行かずに「内キャラ」を大事にしつつ、それとはある程度切り離したものとして「外キャラ」を上手く活用していくというものでした。こうして並べると、現代社会には、さまざまなキャラ操作をめぐる攻防のスタイルがあることが分かります。