阪神大震災で家が全壊
転機になったのは、中学校からキリスト教系の小林聖心女子学院(兵庫県)に進んだこと。まだ日本語もおぼつかず、周囲からは「無理だ」と言われたが、「入りたい」と必死の想いで受験し、なんとか入学することができた。
学校の創立者はフランス革命の時代に女子教育を始めた女性で、「私はたったひとりの子どものためにもこの学校をたてたでしょう」という言葉が校内に刻まれていた。コロンさんは「たったひとりの子ども」が自分のことのように感じられ、「魂から救われるような気持ちでした」と振り返る。
ようやく自分の居場所を見つけて充実した学生生活を送れるようになったものの、中学3年生のときに阪神大震災に遭った。コロンさん一家が住んでいた家は全壊した。
「大きな揺れがあったときは、ありとあらゆる地球の音が混ざっているのではないかと思うぐらい轟音が鳴り響いていた。お皿が割れる音、わーっという人の声。いろんな音の後に完全な静けさが訪れた。そのとき、私は死んだと思ったんです」
話せなくなったが歌は歌えた
恐怖感やショックが大きかったためか、コロンさんはその後しばらく声を失った。感情が消えてしまったようで、話すことができなくなったのだ。ただ、不思議なことに歌は歌えたという。
母親が作った合唱団のメンバーとともに避難所でラテン語の歌を歌うと、「目の前にある日常からつまみあげてもらって別世界に行くような感じがした」。
音楽の力が自分の体を通り、呼吸になって出ていく。そして、その音楽が人の心に届き、人の心をほぐしている――。涙を流しながら聞いてくれる人を見ながら、「目に見えないのに、こんなに力の強いものがあるのだろうか」と心を揺さぶられた。そして「一生、音楽に仕えたい」と思ったという。
親に反対され音楽の道を断念
だが、両親は音楽の道に進むことに大反対。「うちには定収入が入る人が必要だから、会社員か学校の先生になって」と懇願された。自分に音楽の道で生きていけるほどの力があるのかわからず、教育にも関心があったため教育学を専攻することにした。大学院まで学んだ後、聖心インターナショナルスクール(東京)で教員になった。
一方、歌うことも続けた。日本とベネズエラのサッカー国際親善試合があったときには、国立競技場でベネズエラ国家を斉唱。徐々に歌の仕事が増えるにつれ、「我流で歌っていても長く歌い続けるのは厳しいだろうな」と思うようになっていく。
両親に内緒で英国の王立音楽院(Royal Academy of Music)を受験したところ、合格。ただ、金銭的な問題にぶつかった。
コロンさんは高校時代から食品工場でアルバイトをし、大学時代も働きながら学んだ。教員になってからは貯金できるようになったが、それでも学費は1年分しか貯まっていなかった。
その苦境を知った同僚や友人たちが「コンサートをして学費を集めよう」と言ってくれた。「えりかジャム」などのグッズも作って販売してくれて、さらに1年学べるだけの学費が集まった。