私のそばにいた石丸信者の素顔

最初はひょうきんな人物だと思っていたが、何度か会ううちに、Aの危うさが鮮明になってきた。起業といっても自己資金はほぼゼロであり、事業計画も曖昧なもので収益性も怪しく、到底Aの話に乗ることはできない、と私は思った。

なによりAの危うさは、「起業の勉強」と称して都内で開催されているその手のセミナーに頻繁に通っており、むしろそうしたセミナーに参加することが目的化しているように思えたこと。そして起業における教科書といって彼が愛読していたのが服役経験のある著名実業家の本だったことだ。

Aと私はほどなく疎遠になった。私がAの浅はかさを見透かして、それが態度に出てしまったことでAが気分を害したのが直接の原因だったと思う。そして具体的な話になると、抽象的な話でごまかすAの不誠実さに私が決定的な不信感を持ったからだ。

あれから15年近くが経過して、今般私はAのことをふと思い出し、SNSでAの名前を検索したらヒットした。見事なまでに石丸支持者に変貌していたAがそこに居た。おそらく現在、43歳か44歳というところだろう。

新聞も本も読んでいない「大人」が多すぎる

若年層の一部が、石丸を支持するのは繰り返すように、その知識や経験が少ないがゆえの、ある意味「生理的」な現象といえよう。

いま石丸を支持している若者の多くは、加齢するにつれてより知識を得、また社会経験を通じてより具体的な事象に関心を持つようになり、石丸の空っぽさに惹かれたのは「若気の至りの一種」と悟るだろう。人間の成長段階において、相対的に未熟な若年層が石丸に惹かれるのは、シンプルな理屈であり、驚くべきことではない。

問題は、ほんらい未熟で幼稚ではないはずの30~50代の支持層である。

民主主義社会に生きる市民には、最低限度の作法(マナー)が存在する。それは政党や政治家個人が何を言い、何をやって来たのか。はたまた、してこなかったのか。総体として最低限の批判や点検(もちろん肯定でもよい)の前提となる知識を、自分から主体的に取得することだ。それは結果として動画やSNSでもよいが、ふつう3、4分の動画のみでは不可能だから、自然と新聞や出版物への接触というふうになる。

これすらできていない30~50代が少なくとも東京にはかなり多く存在するのだ。もう立派な「市民」なのにもかかわらず、小池や蓮舫の言っていることですらも「難しい」「長い」と感じてしまう「成人」が、たくさんいるという事実はいささか恐怖である。