老夫妻の感謝の気持ちをあらわした雑巾

先日、私が住職を務める建功寺にいらした老夫妻の話をしましょう。

ある日、老夫妻が神奈川県南足柄市にある大雄山最乗寺さいじょうじという禅寺で宿泊の坐禅会に参加したときのことです。

修行僧たちが廊下の雑巾がけをしていたので見ていると、何人かの修行僧が立ったままだったそうです。それを不思議に思ったご主人が、「なぜ和尚さんたちは雑巾がけをしないのですか?」とたずねると、「雑巾の数が足りないので、向こうの人が戻ってきたら交替して、今度は私たちがやるんですよ」とおっしゃったそうです。

それを聞いた老夫妻は、坐禅会を終えて帰宅してから、雑巾づくりを日課にしました。つくった雑巾を寺社に納めるためです。

老夫妻は、日々の買い物に出かけたときに、少しだけ節約して雑巾をつくるためのタオルを1枚、2枚と買って帰ります。そしてタオルの端の縫い目を1枚1枚ほどいて平らにしてから雑巾に縫い上げます。固い縁があると細かいところが拭きづらいだろうという配慮から、手間暇をかけてそうしているそうです。

積み重なったタオル
写真=iStock.com/Asobinin
※写真はイメージです

建功寺へも数十枚の雑巾を奉納していただきました。私も雑巾がけで使わせていただきましたが、ほんとうに使いやすく、隅々まできれいに拭くことができます。それが老夫妻の、今生かされていることへの「おかげさま」という感謝の気持ちのあらわれです。

「させていただく」という気持ちが「丁寧」につながる

感謝の気持ちを込めて10年間で5600枚もの雑巾を縫い上げ、寺社に奉納している老夫妻ですが、当初は奉納をそれほど喜ばれずに残念な気持ちになったこともあったそうです。

あるお寺に「雑巾ですが、使っていただけますでしょうか?」と持っていったところ、対応した僧侶に「おう、使ってやるよ」と横柄に言われたそうです。

「そのときは、カチンときました」

一瞬、頭に血がのぼったのですが、思い直したそうです。さすがに修行をつまれている方です。

「使ってくれるのだから、ありがたく思おう。自分は雑巾を奉納してやっているのではなく、させていただいているのだ。そう気持ちを切り替えたら、楽になりました」

キーワードは「させていただく」です。

仕事でも日常生活でも同じです。「自分がやってあげているんだ」と思うのと、「自分はさせていただいているんだ」、「こうやってできるのはありがたいことなんだ」と思うのでは、同じことをするのでも大きな違いがあります。

実際にやってみるとわかりますが、一つひとつの仕事が丁寧になります。そして、笑顔でできるようになります。

ちなみに、禅寺では「一掃除、二信心」といいます。

まずやるべきことは掃除であり、信心はそれからだという意味です。

信心は、仏道を志す者にとってもっとも基本となるものです。しかし、それよりも掃除を上位と考えます。

床を磨くことは自分の心を磨くことです。「心を清浄な状態にして修行に入りなさい」ということです。ですから、汚れていなくても掃除をするのです。禅寺の廊下が常に、黒光りするほど磨き上げられているのにはそういう理由があるのです。

掃除をすると、何よりも自分自身が心地よくなりますね。