無自覚だから行動を変えられない

こうした理由から、ときに彼らの行動は表面上だけを見ると不可思議に思われることがある。

たとえば、誰もが羨むような昇進や栄転の話を断ってしまったり、あと一歩で成功に近づくのに手柄を他人に譲ってしまったりなどである。理由を聞くと、特に明確に答えるわけではないのだが「僕(私)は、いいんです」と異口同音に言う。

反復強迫を考えるときに重要なのは、彼らにとって何をしていたら「生きている」ことになるのかである。

名取さんにとっては、母親から愛情をもらいたいと欲する気持ちが裏切られ、その余韻の中で浸るあきらめや空虚が「生きている」ことだった。だから、人生において吉兆めいたものがあると「変に怖くなる」と話したことがあった。

彼はここでも自分の心の傷に忠実に生きていた。

長男が生まれた翌日、彼は一人でパチンコに出かけた。昇進が決まった日には同僚からの祝宴を断って、一人で競馬に出かけた。長女の結婚式では「飲まずにはいられなくて」酒を煽り、式を台無しにしてしまった。

こうしたことをするたびに妻からは「私(周囲)から嫌われたいの?」と泣かれた。なんでこんな行動をするのか妻から詰問されるたびに、「自分でもわからない」と答えたという。それから「次は気をつける」とも言う。

しかし、無自覚であるからこそ行動は変わらない。

何度も離婚に向けての話し合いがなされたという。

こういう視点で周囲を見渡してみると、まるでわざと苦しいほうへ、不幸なほうへと、突き進んでいるかのような生き方をしている人がいることに気づくかもしれない。

「普通ではない」が「理に適った」生き方

依存症治療では、我慢し続けて依存行為をしないようにすることが目的となっている部分も多い。ところが、そうした治療を進めると、我慢が破綻してしまったときに激しい衝動に突き動かされてしまうことがある。すると、これまで我慢できていたギャンブルや薬物などを欲する気持ちが高まってしまって、また手を出してしまうことも珍しくない。そして、このときの手の出し方は、これまでに我慢してきた分だけ激しい(こうした背景があって、近年ではアルコール依存症の治療は「断酒」ではなく「節酒」へとなりつつある)。

どんな人でも、安心を求めて生きていく。

しかし、それは「本人なりの」安心である。

虐待を受けてきた人は、この世の中で生きている多くの「普通の」人とは、安心の概念が異なっているようである。

「普通の」親子関係に恵まれてきた人にとって安心とは、人と気持ちが通じ合えること・理解し合えること、などだろう。

一方の普通とは異なる親子関係で生きてきた被虐待者も、言葉では上記と同じように答えるはずである。それが常識的であるということは知っているからだろう。

しかし彼ら彼女らは、実のところ幸せや人との気持ちのつながりを恐れているようでもある。ずっと欲しかったそれが手に入るかもしれないと思うと、怖くなるようだ。彼らは、期待が壊れる事を知っている。信じると裏切られることを感じている。ならば、いっそ、つらいことに触れているほうが安心なのだ。

こういう独特の心理は、心に深い傷があるという本質が見えてくると、とても整合性がある。「彼らなり」の理に適った生き方が、そこにある。