行き詰まったら別の道を探すのが、生きる力

東大卒の財務官僚が仕事でつまずいて出世コースから外れてしまい、それを苦にして自殺した――というニュースを聞いたとき、世間の人は総じて「エリートは挫折を知らないから短絡的に自殺を選んでしまうのだ」と言います。

しかし、私は、生きる道はほかにたくさんあるのに、それに気づかなかったから自殺したのだと思います。

財務省で出世できなくても、経済アナリストになる道もあれば、大学教授になる道もあるし、ベンチャー企業で活躍することもできるでしょう。

「幸せになる」というのをゴールにすれば、いくらでも道はあるはずです。行き詰まったら、別の道を探すのが、生きる力というものでしょう。そもそも、思い通りにいかないのが人生なのですから。

高齢になればなおのこと、どんなに頑張っても「かくあるべし」の通りには、とても生きられません。「人に頼ってはいけない」と思っていても、体や脳が弱ってくると頼らざるをえなくなります。

だから素直に「人に頼ってもいいのだ」というふうに考え方を切り替えられるかどうか。それが、残りの人生を苦しいものにするか、楽に生きていけるかの大きな分かれ目になります。

自宅で看護師にお茶を注いでもらう笑顔の高齢男性
写真=iStock.com/miniseries
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「頼っていいかもしれない」と切り替える

自分は頑張って生きてきたほうだなと思う方は、自分の人生観があまりに厳しくないか自己チェックをしてみてください。さすがに年を重ねたらこれは無理だよねえ、というふうに感じる考え方は、ここで思い切って断捨離しましょう。

そのとき、たとえば「頼ってはいけない」から「頼る」といきなり考えを切り変えるのは難しいでしょうから、「頼っていいかもしれない」とワンクッションを置いてみるといいと思います。

「頼る」なら「そうはいかない」と思いかねませんが、「頼っていい可能性もあるよね」と考えれば、「その可能性はない」とは否定しにくいでしょう。

いろいろなことに「かくあるべし」と答えを決めつけるのではなく、「そうかもしれない」とほかの可能性を考えることは、メンタルヘルスに良いだけでなく、判断が妥当なものとなりやすいはずです。

私も、若い頃は「ものごとには必ず、正しい答えがある」と思いこんでいました。

私が専攻している精神分析の世界では、フロイトの没後、いろいろな学派が勃興し、自分たちが正しいと主張し合っています。

昔は、私もコフート学派がほかの学派より患者さんをうまく治せるし、フロイトが主張する無意識の性欲みたいな、あるのかないのかわからないものを論じるより、コフートが言うように患者さんに共感的な姿勢で接するのが正しいに決まっている、と思っていたのです。

しかし、実際に臨床の現場で自分の正しいと思う理論を当てはめても、問題が解決しないケースがいくつも出てくるわけです。

いまでもコフート的な治療を行っていますが、患者さんによって性格やものの考え方も違いますから、フロイト学派のように患者さんに対して家父長的な接し方をしたほうがいい場合も十分ありえることに気づきました。

どれが正しいかという不毛な議論をするより、結果がよければ、いろいろなやり方があっていいと思えるようになったわけです。