人間が簡単に覚えられる絵柄は「顔」

龍の絵はひと目で「龍」だとわかるが、細かい部分まではなかなか記憶できない。記憶できないということは、偽札が細かい部分で真札と違っていても区別がつかない、ということになる。実はかなり複雑な「絵」なのに人間が簡単に覚えられ、ほかのモノとの見分けがつくのが「顔」つまり人の肖像なのである。

また、この明治通宝は紙の質にも問題があった。どうも洋紙は高温多湿な日本の気候に合わないらしく早く劣化する。日本の気候に合った和紙を使った方がいいのではないか、という議論が起こってきた。

もちろん新しい紙幣を作るとしたら、それは西洋のように人物の肖像を入れたものでなければならない。そこで日本国内で紙幣を印刷することになった。だが、そんな精密な印刷ができる技術者は日本にいない。そこで「お雇い外国人」としてイタリア人のエドアルド・キヨッソーネが招かれることになった。キヨッソーネの専門は精密な銅版画を作ることで、彼が「改造紙幣」の印刷原版を作ることになった。

日本で初めて紙幣の絵柄に選ばれた人物

問題は誰の肖像を選ぶかだ。もちろんキヨッソーネ自身が選んだのではない。彼が作ることを命じられた原版の肖像は神功じんぐう皇后であった。

彼女のことをあなたはご存じだろうか。明治の人間で、少なくとも知識階級で、彼女のことを知らない人間は一人もいなかっただろう。しかし今はまったくと言っていいほど忘れられている。これが日本人のダメなところで、歴史というすばらしい資源を生かし切れていないのも、こういうところに由来する。

一応、国語辞典にも「記紀に伝えられる仲哀天皇の皇后。名は気長足姫尊おきながたらしひめのみこと。仲哀天皇の没後、懐妊のまま朝鮮半島に遠征し、帰国後に応神天皇を出産したといわれる」(デジタル大辞泉)などと簡単な解説はある。

「記紀」とは『古事記』『日本書紀』のことだが、私に言わせれば「神功皇后とは何者か」がわかっていないと日本の歴史はわからないほどのビッグネームなのである。

『名高百勇伝』「神功皇后」歌川国芳 作
『名高百勇伝』「神功皇后」歌川国芳 作(画像=ハンブルク美術工芸博物館/CC-Zero/Wikimedia Commons