母と娘の4人暮らしは長くは続かなかった
母親は、アパートの浴室でひとり出産するとき、激痛とともに膣から押し出されてくる三女の頭部をそっと手で支えて落下から守ったという。8日後、自ら運転する車で約600キロ南下し、九州の熊本市にある赤ちゃんポスト(「こうのとりのゆりかご」・医療法人聖粒会慈恵病院運営)に生後間もない娘を預けた。
その後、母親は長女・次女と暮らす自宅に三女を引き取ることを希望した。「三姉妹」を育てることへの憧れがあったと裁判で語っていたが、「母1人、娘3人」の生活は長くは続かなった。
“異変”があったのは、三女が母親のもとで生活を始めてわずか6日目、2021年4月1日のこと。桜がほころぶ4月は新入園や新入学の季節だ。ところが母親は、2歳になった三女の保育園入園式を無断で欠席した。保育園への通園は、母親が三女を引き取るために、児童相談所が母親に課した「条件」のひとつだったにもかかわらずだ。
本来なら晴れがましいはずの入園式を連絡せずに欠席する。母親のとったこの行動は、今になってみると、無言の悲鳴のように迫ってくる。母親は三女を引き取った直後すでに絶望していたのではなかったか。
その約2年2カ月後、2023年5月25日深夜、三女は心肺停止状態で救急搬送され、翌日に1600日足らずの人生を閉じた。
裁判では触れられなかった行政の責任
三女への暴行による傷害致死罪に問われた母親の裁判は、2024年3月8日に終結した。判決は実刑6年。母親は控訴せず、1審判決が確定した。
判決から約3週間後の3月末、三重県が設置した検証委員会は一見勝之知事に22ページからなる検証報告書を提出した。
検察はもとより、弁護側さえ母親の孤立出産の背景にも行政責任にも触れることなく裁判が展開したことは、すでに伝えた通りだ(第1回、第2回)。
対する検証委員会は、母子と関わる立場にあった行政の5つの機関、すなわち、三重県児童相談所、津市虐待対応部署、児童家庭支援センター、保育園、モニター事業者(津市から受託して家庭訪問や関係部署への聞き取りを行う)にヒアリングを実施。5機関が把握していた状況と、母子に対して行った支援、行わなかった策を、時系列で整理した。
報告書はウェブ上で公表されているので、ぜひ読んでみてほしい(三重県児童虐待死亡事例等検証委員会報告書)。