ジャーナリストは感情を表してもいいのか
トランプ大統領が在任中、報道機関を「人民の敵」、「フェイクニュース」、滅びゆく産業などと攻撃したことで、問題が深刻化した。ジャーナリストはどうやれば、自分たちのことを敵だと説明している人を、感情を排して報道することなどできるのか。存在の根幹を揺るがす難題だ。そして罠にもなり得る。トランプは報道機関に自分を憎悪してほしいのだ。自分が言っている通りだと示せるからだ。
この問題は、ジャーナリストであるという意味の核心を突く。この専門職では、確実に信用してもらうために私的利害は封印すると誓う。そこにおいて感情的な姿勢や憤りはどんなときに適切といえるか。ジャーナリストが人の苦難を目の当たりにして抱く感情も全て脇に置くべきだと主張するのは難しいだろう。感情を表すことが適切な場合とそうでない場合があるとすれば、区別はどこにあるのか。
報道人が最初に問うべきは、ジャーナリズムの取材と報道において人々が必要とするのは何か、ということだ。怒りか。無感情か。内容によるのか。それはどうすれば分かるか。
頭に入れておくべき比喩が二つある。医師と警察だ。もしあなたが外傷を負って病院に行ったとき、診てくれる医師にはどうあってほしいか。感情的になってくれることか、あなたのけがはひどいということで(つまり民主主義への脅威が深刻だということで)。それとも医師にはできる限りプロとして医療者としての姿勢を保ってほしいか。
あるいは、警察官があなたの車を止めたとしよう。あなたは、その警官がパニクって感情的でいてほしいか。それとも冷静で落ち着いていてほしいか。
ケネディ暗殺に涙するのは自然な反応
区別はどこにあるのか。一つの経験則では、感情を露わにすべきなのは、他のどんな反応も無理をしているように見えるとき――感情を表すのが唯一自然な反応となるときだ。
ニュースキャスターのウォルター・クロンカイトが1963年にジョン・ケネディが暗殺されたときに涙を拭い、その数年後、ロケット打ち上げに畏敬を感じているのを見せたとき、米国人はもっともなことと受け止めた――偽物の振る舞いではないと。
もう一つの経験則は、問題を見つけた瞬間の後、その出来事についてより広く深い背景を知るための情報を探す間は、感情的な振る舞いは出さずにいるべきだということだ。
ジャーナリストは見たものにいったん人間的な反応をしたなら、そこからはそのテーマの答えを探るために心を落ち着かせなければならない。これにはプロフェッショナリズム、懐疑心、そして知的独立心が求められる。
人間らしい感情はニュースがニュースであるための核心だ。しかしひとたびそれを人工的に作ったり、それを自分へ注意を向けるために利用したりすれば、あなたは一線を越え、既に有り余っているものになる。リアリティ・エンターテインメントだ。このとき、感情的な振る舞いはニュースを悪用したベタな受け狙いであり、ニュースへの純粋で人に役立つ反応ではなくなる。