「折檻状」に書かれていたこと
この折檻状の中には、家康に関わることも書かれている。その一つは、家康の伯父・水野信元(家康の母・於大の方の異母兄)に関連することだ。水野信元は、天正3年(1575)、武田勝頼に内応した疑いをかけられ、信長の命令により、殺害されたといわれている。
水野氏は三河刈谷を本拠としていたが、その跡は、佐久間信盛が申し付けられた。ところが、折檻状によると、信盛は家臣を増やそうとせず、水野旧臣を追放し、その所領を自らのものとして私腹を肥やしていたという。山崎(京都府乙訓郡)においても、信盛は同様のことをしていたようで「刈谷の処置と同様だ」と信長の怒りを買っている。
さらに、家康に関連する別の内容としては、元亀3年(1572)12月、織田・徳川連合軍と武田信玄軍が激突した三方ヶ原の戦い(静岡県浜松市)に関するものがある。佐久間信盛は、家康軍の平手汎秀・水野信元らと共に徳川の援軍として派遣されていた。
が、信長が言うには、佐久間信盛は三方ヶ原において「身内の者は一人も死なせず、逃げ帰り、平手汎秀を見捨てて死なせ、平気な顔をしている」という。
信盛からしたら何年も前のことを(今更言われても)という気分だったろうが、信長は折檻状において、何年も前のことを持ち出して、信盛を批判している。
言葉で怒るだけで、手は出ていない
天正元年(1573)の越前・朝倉氏攻めに関することもその一つであろう。信長はかねて、諸将に「好機を逃さず、覚悟して攻めかかるように」と注意していた。ところが、諸将は油断して、信長が先発する事態となる。慌てて主君の後を追う諸将に対し、信長は「お前たちの失態、許し難い」と怒る。
羽柴秀吉や柴田勝家、滝川一益ら織田家臣は「面目ございません」と謝罪したのに対し、一人、信盛だけが「我々ほどの優れた家臣をお持ちになることは、滅多にあるまいものを」と涙を流して主張した。
信長は「才知が優れていることを自慢しているのか。何をもってそう言えるのか。片腹痛い」と詰問、機嫌を損ねる。その時のことを、信長は折檻状で、信盛の抗弁により「私は面目を失った」と再び責めるのである。
注目すべきは、信長は信盛が抗弁した時も、言葉で怒るだけで、手は出ていないことだ。命のやり取りをする戦場での出来事、俗書に記された光秀の「失言」「失敗」とは比べ物にならない。そうであるのに、信長は暴力を振るっていないのである。
同年、信長は家老の林佐渡守や、安藤伊賀守、丹羽右近を、謀反を企てたとして追放しているが、暴力を振るったという記述はない。ましてや、明智光秀に暴行したという文章も『信長公記』には見られない。