徳川家を守るためにみずからの命を捧げる

不思議なことに、ドラマでは信長からの圧力を受けて家康が家臣たちと話し合う場に、裁かれる側の信康も築山殿も同席していた。まるで現代の家族会議である。

信康が「私が腹を切る」と言うと、家康は「信長と手を切る」「お前を死なせるくらいだったら、わしが腹を切る」など、およそ領国を守るべき戦国大名にあるまじき発言を繰り返し、挙げ句、信長をあざむくことを決める。すなわち、2人を死んだことにして、逃がすことにしたのだ。

一方、築山殿は、信長の長女で信康の正室である五徳(久保史緒里)に、信長に信康と築山殿への苦情をつづった手紙を書かせた。すべての責任を自分が負い、徳川家を守ろうという決意の表れで、五徳は信康とも築山殿とも不仲だった、という通説とは逆の描き方だった。

信康は生き延びることを潔しとせず、「力づくでもお逃がししろと、殿の命にござる」という家臣の言うことを聞かずに、相手の刀を奪って自分の腹に突き刺した。それは徳川家を守るためにみずからの命を捧げるためだ、という描き方で、涙を誘おうというねらいが見てとれた。

そして、信康の死を知った家康は倒れ、寝込んでしまう――。

家康が自分の意志で処罰した

たしかに以前は、信康は信長の命で切腹させられたと考えられていた。それは江戸初期に旗本の大久保忠教(いわゆる大久保彦左衛門)が書いた『三河物語』に拠っていた。

そこには、五徳が信康の不行状を12カ条にわたって書いて信長に届け、尋問された酒井忠次がすべて真実だと答えたため、信長は家康に信康の切腹を命じた、と書かれている。

だが、いまでは『三河物語』の記述には、徳川家の不名誉を信長と五徳、および酒井忠次のせいにしてしまおうという著者の意図が指摘されている。

一方、家康が信長の重臣の堀秀政に宛てた書状、および『当代記』、『安土日記』などのより信頼性の高い史料には、家康がみずからの意志で信康を処罰した旨が記されている。それらによれば信長は、家康から信康処断の意志を聞いて了解し、家康の思うとおりにすればよい、と言ったにすぎない。

『当代記』によれば、家康は酒井忠次を信長のもとに派遣し、信康が家康の命に背くばかりか、義父である信長のことも軽んじ、家臣に対しても非道な振る舞いが目立つので幽閉する、と伝えたという。