いなば食品の炎上から得られる「教訓」
おそらく、働くとは、良くも悪くも、その程度のものなのだろう。
我慢の対価の場合もあれば、反対に、能力以上の見返りを得られる時もある。上司や同僚、部下、経済情勢といった、自分(だけ)ではどうにもならない要因によって左右される。能力があるからといって評価されるとは限らないし、適性がなくても優遇されるかもしれない。
すべて運が支配する、とまでは言わないものの、いつも隣の芝生は青いし、青い鳥を求めたくなるが、それでも、理想の職場・職業には、なかなかたどりつけない。不確実な世界と、さまざまなしがらみのなかで、ほとんどの場合は妥協して、何かの仕事をしてお金を得る以外に方策はない。
だからこそ、いなば食品の劣悪とされる労働環境、それも、新入社員を受け入れる様子に関心が集まったのである。希望に胸を膨らませて入社した若い人たちには、せめて、快適な労働環境を与えてほしい。そんな願いが、多くの世代から寄せられたから、いなば食品への冷たい視線は収まらない。
もちろん、同社には多くの瑕疵がある。会社を創業家の所有物と勘違いし、働く人たちを家来と思っているかのような扱いは糾されなければならない。いくら言い訳を重ねても、その端から、稲葉家が、これまで労働者をどう扱ってきたのかが、漏れ伝わってくるからである。
ただ、それ以上に、私たちにとって、働くとは何かを考えさせてくれた意義は大きい。会社は利潤を追い求めるしかない以上、私たち労働者が、それとどう付き合うのかは、極めて利己的な選択であって良いし、あるべきではないか。
そんな教訓を与えてくれた点で、いなば食品は、同社のキャッチフレーズ「世界の猫を喜ばす」というよりも、「世界の人に喜びを考えさせる」役割を果たしたと言えるのかもしれない。